〔『聞書抄』私訳〕
/「僧堂・仏殿・廚庫・三門、たとひいづれの仏祖なりとも、人々をまぬかれざるものなり。このゆゑに人々にあらず」とは、尽十方界真実人体であるから「人々をまぬかれず」と言い、「このゆゑに人々にあらず」と言うのである。矛盾した言葉のようであるけれども、親切に説く時はこのように言うのである。
/上にあげた「青黃赤白」の「光」を嫌い、すぐに「仏光」を見て「青黃赤白」とすることがあってはいけないとあるのは、「青黃赤白」に執着して、「光」ではないと言うことがあってはいけないということである。
/三界唯心であるから、三界ではないと言い、唯有一乗法であるから、十方仏土中ではないと言うようなことである。
〔『抄』私訳〕
「しばらく雲門にとふ、なんぢなにをよんでか人々とする、なにをよんでか光明とする。雲門みづからいはく、作麼生是光明在。この問著は、疑殺話頭の光明なり。しかあれども、恁麼道著すれば、人々、光々なり」とある。
本当に、これは何を呼んで「人々」とし、「光明」とするのか、「是れ什麼物ナニモノか什麼来インモライ」の道理である。どんなものにも当たるから、「説似一物即不中」である。この問いは疑問のようであるが、これは「疑殺話頭」の「疑殺」とは、この問いは普通の疑問ではなく、この問いの理が至極の道理であるところを「疑殺話頭の光明なり」と言われるのである。
「ときに衆無対。たとひ百千の道得ありとも、無対を拈じて道著するなり。これ仏祖正伝の正法眼蔵涅槃妙心なり」とある。
この「無対」の姿を、一般には、口を閉じて物を言わない様子と思っている。今は、「百千の道得ありとも」、この「無対」に勝る「道著」はないと言うのである。この「無対」の道理が「道著」の道理であるから、このように言われるのである。この「無対」の道理が、また「正法眼蔵涅槃妙心なり」とあり、いかにもその趣旨がある。
合掌
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