〔『正法眼蔵』原文〕
雲門山大慈雲匡真キョウシン大師は、
如来世尊より三十九世の兒孫なり。
法を雪峰真覚大師に嗣す。
仏衆の晩進なりといへども、祖席の英雄なり。
たれか雲門山に光明仏の未曽出世ミゾウシュッセと道取せん。
あるとき、上堂示衆云ジシュウニイハク、人々尽有光明在、看時不見暗昏々、作麼生ソモサン是諸人光明在《人々尽く光明の在る有り、看る時見ミエず暗昏々なり。作麼生ならんか是れ諸人の光明在ること》。
衆無対《衆、対コタふること無し》。
自代云《自ら代て云く》、「僧堂・仏殿・廚庫チュウク・山門」。
3−2 いま大師道の「人々ジンジン尽有ジンウ光明在コウミョウザイ」は、のちに出現すべしといはず、往世にありしといはず、傍観の現成といはず。人々、自有、光明在と道取するを、あきらかに聞持モンヂすべきなり。
百千の雲門をあつめて同参せしめ、一口同音に道取せしむるなり。
「人々、尽有、光明在」は、雲門の自構にあらず、
人々の光明みづから拈光為道なり。
「人々尽有光明」とは、渾人自是光明在なり。
光明といふは人々なり。
光明を拈得して、依報正報とせり。
光明尽有人々在なるべし、光々自是人々在なり、人々自有人々在なり、光々自有光々在なり、有々尽有有々在なり、尽々有々尽々在なり。
〔『正法眼蔵』私訳〕
雲門山の大慈雲匡真大師(雲門文偃ブンエイ)は、
釈迦牟尼仏より三十九代目の法孫である。
(雲門山、大慈雲匡真大師は、如来、世尊より三十九世の児孫なり。)
法を雪峰真覚大師(雪峰義存)から受けついだ。
(法を雪峰真覚大師に嗣す。)
仏僧の後進であるけれども、禅門の傑物である。
(仏衆の晩進なりといへども、祖席の英雄なり。)
雲門山に光明仏が出世したことがないと、誰が言おうか。
(たれか雲門山に光明仏の未曽出世と道取せん。)
ある時、法堂ハットウに上ノボって大衆(多くの僧)に示して言った、
「人々に尽く光明がある。しかし、それを見ようとしても見ることができない。すべての人に光明があるとは、一体どのようなことか」。
(あるとき、上堂示衆云、人々尽く光明の在る有り、看る時見ず暗昏昏なり。
作麼生ならんか是れ諸人の光明在ること。)
大衆は、対コタえなかった。
(衆無対《衆、対ふること無し》。)
雲門が、自ら代わって言った、「僧堂、仏殿、廚庫、三門」。
(自代云《自ら代て云く》、「僧堂・仏殿・廚庫・山門」。)
今雲門大師が言う「人々に尽く光明がある」とは、
光明がのちに出現すると言うのでもなく、過去にあったと言うのでもなく、傍観者が現すと言うのでもないのである。
(いま大師道の「人々尽有光明在」は、のちに出現すべしといはず、
往世にありしといはず、傍観の現成といはず。)
「人々に、自ずから、光明がある」というのを、
しっかりと聞いて保持すべきである。
(「人々、自有、光明在」と道取するを、あきらかに聞持すべきなり。)
百人千人の雲門を集めて一緒に修行させ、
声をそろえて「人々に尽く光明がある」と言わせるのである。
(百千の雲門をあつめて同参せしめ、一口同音に道取せしむるなり。)
「人々に、尽く、光明がある」とは、雲門が自ら言い出したものではなく、人々の光明が自ら光明があると言ったのである。
(人々、尽有、光明在は、雲門の自構にあらず、
人々の光明みづから拈光為道なり。)
「人々に尽く光明がある」とは、
全身心に自ずから光明があるということである。
(人々尽有光明とは、渾人自是光明在なり。)
光明というのは人々のことである。
(光明といふは人々なり。)
光明を取り上げて、人々の環境と身体としているのである。
(光明を拈得して、依報正報とせり。)
光明に尽く人々がある、光々に自ずから人々がある、人々に自ずから人々がある、光々に自ずから光々がある、有々に尽く有々がある、尽々に有があり尽々がある。
(光明尽有人々在なるべし、光々自是人々在なり、人々自有人々在なり、
光々自有光々在なり、有々尽有有々在なり、尽々有有尽々在なり。)
〔人々と光明に主客がないことをこのように言うのである。〕
合掌
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