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人々にことごとく光明がある『第十五光明』15-3-1a

 〔『正法眼蔵』原文〕

 雲門山大慈雲匡真キョウシン大師は、

如来世尊より三十九世の兒孫なり。


法を雪峰真覚大師に嗣す。


仏衆の晩進なりといへども、祖席の英雄なり。


たれか雲門山に光明仏の未曽出世ミゾウシュッセと道取せん。


 あるとき、上堂示衆云ジシュウニイハク、人々尽有光明在、看時不見暗昏々、作麼生ソモサン是諸人光明在《人々尽く光明の在る有り、看る時見ミエず暗昏々なり。作麼生ならんか是れ諸人の光明在ること》。


 衆無対《衆、対コタふること無し》。


 自代云《自ら代て云く》、「僧堂・仏殿・廚庫チュウク・山門」。


3−2 いま大師道の「人々ジンジン尽有ジンウ光明在コウミョウザイ」は、のちに出現すべしといはず、往世にありしといはず、傍観の現成といはず。人々、自有、光明在と道取するを、あきらかに聞持モンヂすべきなり。


百千の雲門をあつめて同参せしめ、一口同音に道取せしむるなり。


「人々、尽有、光明在」は、雲門の自構にあらず、

人々の光明みづから拈光為道なり。


「人々尽有光明」とは、渾人自是光明在なり。


光明といふは人々なり。


光明を拈得して、依報正報とせり。


光明尽有人々在なるべし、光々自是人々在なり、人々自有人々在なり、光々自有光々在なり、有々尽有有々在なり、尽々有々尽々在なり。



〔『正法眼蔵』私訳〕

雲門山の大慈雲匡真大師(雲門文偃ブンエイ)は、

釈迦牟尼仏より三十九代目の法孫である。

(雲門山、大慈雲匡真大師は、如来、世尊より三十九世の児孫なり。) 


法を雪峰真覚大師(雪峰義存)から受けついだ。

(法を雪峰真覚大師に嗣す。)


仏僧の後進であるけれども、禅門の傑物である。

(仏衆の晩進なりといへども、祖席の英雄なり。)


雲門山に光明仏が出世したことがないと、誰が言おうか。

(たれか雲門山に光明仏の未曽出世と道取せん。)


ある時、法堂ハットウに上ノボって大衆(多くの僧)に示して言った、

「人々に尽く光明がある。しかし、それを見ようとしても見ることができない。すべての人に光明があるとは、一体どのようなことか」。

(あるとき、上堂示衆云、人々尽く光明の在る有り、看る時見ず暗昏昏なり。

作麼生ならんか是れ諸人の光明在ること。)


大衆は、対コタえなかった。

(衆無対《衆、対ふること無し》。)


雲門が、自ら代わって言った、「僧堂、仏殿、廚庫、三門」。

(自代云《自ら代て云く》、「僧堂・仏殿・廚庫・山門」。)


今雲門大師が言う「人々に尽く光明がある」とは、

光明がのちに出現すると言うのでもなく、過去にあったと言うのでもなく、傍観者が現すと言うのでもないのである。

(いま大師道の「人々尽有光明在」は、のちに出現すべしといはず、

往世にありしといはず、傍観の現成といはず。)


「人々に、自ずから、光明がある」というのを、

しっかりと聞いて保持すべきである。

(「人々、自有、光明在」と道取するを、あきらかに聞持すべきなり。)


百人千人の雲門を集めて一緒に修行させ、

声をそろえて「人々に尽く光明がある」と言わせるのである。

(百千の雲門をあつめて同参せしめ、一口同音に道取せしむるなり。)


「人々に、尽く、光明がある」とは、雲門が自ら言い出したものではなく、人々の光明が自ら光明があると言ったのである。

(人々、尽有、光明在は、雲門の自構にあらず、

人々の光明みづから拈光為道なり。)


「人々に尽く光明がある」とは、

全身心に自ずから光明があるということである。

(人々尽有光明とは、渾人自是光明在なり。)


光明というのは人々のことである。

(光明といふは人々なり。)


光明を取り上げて、人々の環境と身体としているのである。

(光明を拈得して、依報正報とせり。)


光明に尽く人々がある、光々に自ずから人々がある、人々に自ずから人々がある、光々に自ずから光々がある、有々に尽く有々がある、尽々に有があり尽々がある。

(光明尽有人々在なるべし、光々自是人々在なり、人々自有人々在なり、

光々自有光々在なり、有々尽有有々在なり、尽々有有尽々在なり。)

〔人々と光明に主客がないことをこのように言うのである。〕




                   合掌


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