スキップしてメイン コンテンツに移動

人々にことごとく光明がある『第十五光明』15-3-1b

 〔『聞書』私訳〕

大慈雲匡真大師の段。

「たれか雲門山に光明仏の未曽出世と道取せん」とは、「人々尽有光明在」(人々尽く光明の在る有り)の言葉は、今初めて聞くわけではない。


『仏性』の巻で、「一切衆生悉有仏性」(一切の衆生は悉く仏性である)と言った時からその理は露わである。「人々」と「一切衆生」は同じであるからである。「人」といえば、やはり「人」の衆生に限られ、一切の衆生(生きとし生けるもの)は広い概念のようであるが、「人々」と置けば、仏法を学ぶ一人の上で尽くさないことはないのである。


一静一動(静が極まって動)もこのようなことである。悉の語と「尽」もまた同じである。「看時ミルトキ不見ミエズ」とあれば「暗昏々」はいかにもしっくりする。「一切衆生悉有仏性」として「看時不見」は理解されるのである。仏性を見る時は、「看時不見暗昏々」なのである。


「人々尽有光明在」の言葉は、「光明仏」が世に在ると言っていいと「雲門」が言われる言葉である。




〔『聞書』私訳〕

/「人々」とは、「許多(多くの)の手眼を用い」の許多を「人々」と挙げるのである。「背手模枕子」手を背ウシロにして枕子を摸すると同じと理解すべきである。「看時」も「不見」も、「暗昏々」も、「作麼生是諸人」も「光明」も、同じであることを明らかにするのである。「不見一法名如来」(一法を見ざるを如来と名づく)ということがある。この「見る」は「光明」が「見せる」とするのか、「人々」が「見る」とするのか。「暗昏々」は「不見ミエズ」と言っても悪いことではなく、能所をやめる意である。この道理が「作麼生ならんか是れ諸人の光明在ること」である。


/「自代」とは、「光明」と言うのである。「衆」に代わって「自」と言うのではない。「人々」もまた言うと理解するのである。


/「衆、無対」とは、「人々尽有光明在」であるからである。「衆」の「無対」が劣り、「雲門」の「僧堂・仏殿・廚庫・山門」の言葉が勝れていると言ってはいけない。勝劣を立てれば、「無対」の意味が変わるのである。「可対」(こたえるべき)ところを「無対」(こたえない)なのではない。答えを待たない問いがあり、問いに依らない答えがあるから、「衆」の「無対」は「光明仏」の「無対」であり、「衆」に限らないのである。


/「転疎転遠」も「光明」とある上は、言うまでないことであるがまた疎遠がないわけではない。


/「人々尽有光明在」(人々は尽く光明がある)は、「のちに出現すべしといはず、往世にありしといはず、傍観の現成といはず」である。「人々、自有、光明在」(人々は自ら光明がある)と言った時に、「光明尽有人々在」(光明は尽く人々がある)なのである。「仏光明」「光明仏」は、有無の「仏」というほどのことである。


「人々」の上に「雲門」を作るのである。「人々」の内に「雲門」があり、自ら称するのではないのである。「百千の雲門」とは、能所(主客)がないことを言う言葉である。



〔『抄』私訳〕

「雲門山大慈雲匡真大師は、如来世尊より三十九世の兒孫なり。法を雪峰真覚大師に嗣す。仏衆の晩進なりといへども、祖席の英雄なり。たれか雲門山に光明仏の未曽出世と道取せん」とある。


これは雲門をそのまま「光明」と言うのである。だから、「光明仏」と言い、「たれか雲門山に光明仏の未曽出世と道取せん」と言うのである。


「あるとき、上堂示衆云、人々尽有光明在、看時不見暗昏々、作麼生是諸人光明在《人々尽く光明の在る有り、看る時見ず暗昏昏なり。作麼生ならんか是れ諸人の光明在ること》。

 衆無対《衆、対ふること無し》。

 自代云《自ら代て云く》、「僧堂・仏殿・廚庫・山門」。

 いま大師道の「人々尽有光明在」は、のちに出現すべしといはず、往世にありしといはず、傍観の現成といはず。人々、自有、光明在と道取するを、あきらかに聞持すべきなり」とある。


「大師道の人々尽有光明在」とは、「人々」(一切衆生)を置いて(対象化して)、この「人々」が「光明」に照らされると理解されるであろうところを、この「人々」はすでに「光明」そのものであるから、「のちに出現す」るのではない、また「往世にありしといはず」、また「傍観」がいて「光明」を「現成」すると言わず、ただ、「人々自有光明在と道取」というのである。


「百千の雲門をあつめて同参せしめ、一口同音に道取せしむるなり。人々、尽有、光明在は、雲門の自構にあらず、人々の光明みづから拈光為道なり」とある。


この「人々、尽有、光明在」の言葉は、「雲門」の言葉と思われる。ただ、「雲門」並びに三世諸仏・諸代祖師の皮肉は、ただ一体であるから、「百千の雲門をあつめて」と言うのである。彼らが「一口同音に道取せしむる」言葉であると理解すべきである。だから「人々、尽有、光明在は、雲門の自構にあらず、人々の光明みづから拈光為道なり」と言うのである。


「人々尽有光明とは、渾人自是光明在なり。光明といふは人々なり。光明を拈得して、依報正報とせり」とある。

「人々尽有の光明とは、渾人自是光明在なり」とは、全人であり、全人は「光明」だという意である。「光明といふは人々なり」というので明らかである。「光明」をもって「依報正報」(環境と身体)とするのだとあり、文の通りである。


「光明尽有人々在なるべし、光々自是人々在なり(以下略)」とある。

これは、「人々尽有光明在」とあった「雲門」の言葉を、例えば「即心是仏」のように、あれこれ入れ替えて書かれたのである。その理はただ同じことである。よくよく静かに考えをめぐらすべきである。



                   合掌


ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                           


     ↓               ↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ   にほんブログ村PVアクセスランキング にほんブログ村

コメント

このブログの人気の投稿

尽十方界は沙門の眼である『第十五光明』15-1-1a

  明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。 〔『正法眼蔵』原文〕  大宋国湖南長沙 チョウシャ 招賢大師、上堂示衆云 ジシュウニイワク    尽十方界、是沙門眼。《尽十方界、是れ沙門の眼》    尽十方界、是沙門家常語。《尽十方界、是れ沙門の家常語》    尽十方界、是沙門全身。《尽十方界、是れ沙門の全身》    尽十方界、是自己光明。《尽十方界、是れ自己の光明》    尽十方界、在自己光明裏。《尽十方界、自己の光明裏に在り》    尽十方界、無一人不是自己。《尽十方界、一人として是れ自己にあらざる無し》  仏道の参学、かならず勤学 ゴンガク にすべし。 転疎転遠 テンソテンノン なるべからず。 これによりて光明を学得せる作家 ソカ 、まれなるものなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 大宋国湖南の長沙景岑招賢大師が、法座に上って大衆に示して言う、 (大宋国湖南長沙招賢大師、上堂示衆云) 尽十方界 (全世界) は、沙門 (修行僧) の眼 (私がなく見えるままの眼) である。 (尽十方界、是れ沙門の眼) 尽十方界は、沙門の日常の語である。 (尽十方界、是れ沙門の家常語) 尽十方界は、沙門の全身である。 (尽十方界、是れ沙門の全身) 尽十方界は、自己の光明である。 (尽十方界、是れ自己の光明) 尽十方界は、自己の光明の中にある。 (尽十方界、自己の光明裏に在り) 尽十方界は、一人として尽十方界が自己でないものはいない。 (尽十方界、一人として是れ自己にあらざる無し) 仏道の参学は、必ず熱心に光明を修行すべきである。 (仏道の参学、かならず勤学にすべし。) 光明と疎遠であってはならない。 (転疎転遠なるべからず。) 光明と疎遠であって光明を自己のものにできた 作家 (仏道に弟子を導くことができる優れた師家) は、希なものである。 (これによりて光明を学得せる作家、まれなるものなり。) 尽十方界は沙門の眼である『第十五光明』15-1-1b                    合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                     ↓               ↓       にほんブログ村

人間の目の素晴らしい働き 番外編

  皆さんのご参考になるかもしれない動画に出会いました。こちらを何度もご覧になり、素晴らしい実感を味わってみてください。 動画: 正法眼蔵(人間の目の素晴らしい働き) 尚、ご参考までに以下文字起こしをしました。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・皆さんこんにちは、安穏寺チャンネルを ご覧いただきましてありがとうご ざいます。チャンネル名は毎回変わるかもしれませ んけれどもご容赦ください。今日はですね、我々の人間のこの目の働きを通してある、我々が気がつかないでいる素晴らしい力に ついて勉強してまいりたいと思います。  まず初めにですね、一度目を閉じてみて ください。で、ゆっくり開けます。 もう一度目を閉じます。で、目をゆっくり開け て ください。で、そこで最初に行われていること をよく観察してみてください。目というものは見る前にですね、写るという働きが先に あるんじゃないでしょうか。よくよく皆さん やってみてください。 目をまず閉じます。で、見ようとしてみてください。ぐーっと 今目を閉じてますから見えませんね。目を開けます、そうすると見るよりも先に写し出さ れるということが先にありませんか。この写し出される、写るという働きには私がありません。 自分が例えばキョロキョロあっちを 見ようとかですね、こっちを見ようとする ことは自分が自分で焦点を合わせようとしてますから、自分の意でそこに焦点を 合わせようとしてますですけれども、もう 一度目を閉じてください。目を閉じて ゆっくりと開けてみてください。見る前に写っている写し出されているということが がありませんか。 私たちの目という働き、目というものの力、働きはですね、そのこの我々の体の前にあることを、こうある角度で写し出す素晴らしい力 があります。目というレンズですね、皆さんのお持ちのカメラやスマートフォンや ムービーなどのレンズもですね、そのものをですねそのまま写し出す力があります。 写真 という言葉がありますが、真実を写すという、真実を写す本当の我々の素晴らしい働き、このマナコなん です。今のこの映像というものは今の皆さん の目がこう写し出すこの時しかないですね。この動画はもう過去のものでございますから、今私は別のところに行ってご飯とか 食べてるかもしれませんですが、今...

むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 『第十大悟』10-4-2a

〔『正法眼蔵』原文〕  「還仮悟否 ゲンケゴヒ 《 還 カエ って悟を仮るや否や 》」。 この道をしづかに参究して、 胸襟 キョウキン にも換却すべし、 頂𩕳 チョウネイ にも換却すべし 。  近日大宋国禿子 トクス 等いはく、「悟道是本期 ゼホンゴ 《悟道是れ本期なり》 」。 かくのごとくいひていたづらに待悟す。 しかあれども、 仏祖の光明 にてらされざるがごとし。 たゞ真善知識に参取すべきを、懶惰 ランダ にして蹉過 サカ するなり。 古仏の出世にも度脱せざりぬべし。 〔『正法眼蔵』私訳〕   「 むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 」。 この言葉を静かに親しく究め尽くして、 心の中のものとも取り換えなさい、 頭の中のものとも取り換えなさい 。 (「還仮悟否」。この道しづかに参究して、胸襟にも換却すべし、 頂𩕳 にも換却すべし。)   近頃、大宋国では、頭を剃って坊さんの格好をした連中が、 「仏道修行は道を悟ることが本来の目的だ」と言っている。 このように言って、無駄に悟りが来るのを待っている。 (近日大宋国禿子等いはく、悟道是れ本期なり。かくのごとくいひていたづらに待悟す。) そうであるけれども、 仏陀や祖師と同じような 自己の光明 に照らされないようなものである。 (しかあれども、仏祖の光明にてらされざるがごとし。) ただ真の善知識 (人を正しく導く師) について学ぶべきであるのに、 時間を無駄に過ごして 大道(自己の光明に照らされる在り様) を踏み間違えているのである。 (たゞ真善知識に参取すべきを、懶惰にして蹉過するなり。) たとえどんな仏の出生に出会っても、解脱しないであろう 。 (古仏の出世にも度脱せざりぬべし。) むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 『第十大悟』10-4-2b                          合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                               ↓               ↓       にほんブログ村