〔『聞書』私訳〕
大慈雲匡真大師の段。
「たれか雲門山に光明仏の未曽出世と道取せん」とは、「人々尽有光明在」(人々尽く光明の在る有り)の言葉は、今初めて聞くわけではない。
『仏性』の巻で、「一切衆生悉有仏性」(一切の衆生は悉く仏性である)と言った時からその理は露わである。「人々」と「一切衆生」は同じであるからである。「人」といえば、やはり「人」の衆生に限られ、一切の衆生(生きとし生けるもの)は広い概念のようであるが、「人々」と置けば、仏法を学ぶ一人の上で尽くさないことはないのである。
一静一動(静が極まって動)もこのようなことである。悉の語と「尽」もまた同じである。「看時ミルトキ不見ミエズ」とあれば「暗昏々」はいかにもしっくりする。「一切衆生悉有仏性」として「看時不見」は理解されるのである。仏性を見る時は、「看時不見暗昏々」なのである。
「人々尽有光明在」の言葉は、「光明仏」が世に在ると言っていいと「雲門」が言われる言葉である。
〔『聞書』私訳〕
/「人々」とは、「許多(多くの)の手眼を用い」の許多を「人々」と挙げるのである。「背手模枕子」(手を背ウシロにして枕子を摸する)と同じと理解すべきである。「看時」も「不見」も、「暗昏々」も、「作麼生是諸人」も「光明」も、同じであることを明らかにするのである。「不見一法名如来」(一法を見ざるを如来と名づく)ということがある。この「見る」は「光明」が「見せる」とするのか、「人々」が「見る」とするのか。「暗昏々」は「不見ミエズ」と言っても悪いことではなく、能所をやめる意である。この道理が「作麼生ならんか是れ諸人の光明在ること」である。
/「自代」とは、「光明」と言うのである。「衆」に代わって「自」と言うのではない。「人々」もまた言うと理解するのである。
/「衆、無対」とは、「人々尽有光明在」であるからである。「衆」の「無対」が劣り、「雲門」の「僧堂・仏殿・廚庫・山門」の言葉が勝れていると言ってはいけない。勝劣を立てれば、「無対」の意味が変わるのである。「可対」(こたえるべき)ところを「無対」(こたえない)なのではない。答えを待たない問いがあり、問いに依らない答えがあるから、「衆」の「無対」は「光明仏」の「無対」であり、「衆」に限らないのである。
/「転疎転遠」も「光明」とある上は、言うまでないことであるがまた疎遠がないわけではない。
/「人々尽有光明在」(人々は尽く光明がある)は、「のちに出現すべしといはず、往世にありしといはず、傍観の現成といはず」である。「人々、自有、光明在」(人々は自ら光明がある)と言った時に、「光明尽有人々在」(光明は尽く人々がある)なのである。「仏光明」「光明仏」は、有無の「仏」というほどのことである。
「人々」の上に「雲門」を作るのである。「人々」の内に「雲門」があり、自ら称するのではないのである。「百千の雲門」とは、能所(主客)がないことを言う言葉である。
〔『抄』私訳〕
「雲門山大慈雲匡真大師は、如来世尊より三十九世の兒孫なり。法を雪峰真覚大師に嗣す。仏衆の晩進なりといへども、祖席の英雄なり。たれか雲門山に光明仏の未曽出世と道取せん」とある。
これは雲門をそのまま「光明」と言うのである。だから、「光明仏」と言い、「たれか雲門山に光明仏の未曽出世と道取せん」と言うのである。
「あるとき、上堂示衆云、人々尽有光明在、看時不見暗昏々、作麼生是諸人光明在《人々尽く光明の在る有り、看る時見ず暗昏昏なり。作麼生ならんか是れ諸人の光明在ること》。
衆無対《衆、対ふること無し》。
自代云《自ら代て云く》、「僧堂・仏殿・廚庫・山門」。
いま大師道の「人々尽有光明在」は、のちに出現すべしといはず、往世にありしといはず、傍観の現成といはず。人々、自有、光明在と道取するを、あきらかに聞持すべきなり」とある。
「大師道の人々尽有光明在」とは、「人々」(一切衆生)を置いて(対象化して)、この「人々」が「光明」に照らされると理解されるであろうところを、この「人々」はすでに「光明」そのものであるから、「のちに出現す」るのではない、また「往世にありしといはず」、また「傍観」がいて「光明」を「現成」すると言わず、ただ、「人々自有光明在と道取」というのである。
「百千の雲門をあつめて同参せしめ、一口同音に道取せしむるなり。人々、尽有、光明在は、雲門の自構にあらず、人々の光明みづから拈光為道なり」とある。
この「人々、尽有、光明在」の言葉は、「雲門」の言葉と思われる。ただ、「雲門」並びに三世諸仏・諸代祖師の皮肉は、ただ一体であるから、「百千の雲門をあつめて」と言うのである。彼らが「一口同音に道取せしむる」言葉であると理解すべきである。だから「人々、尽有、光明在は、雲門の自構にあらず、人々の光明みづから拈光為道なり」と言うのである。
「人々尽有光明とは、渾人自是光明在なり。光明といふは人々なり。光明を拈得して、依報正報とせり」とある。
「人々尽有の光明とは、渾人自是光明在なり」とは、全人であり、全人は「光明」だという意である。「光明といふは人々なり」というので明らかである。「光明」をもって「依報正報」(環境と身体)とするのだとあり、文の通りである。
「光明尽有人々在なるべし、光々自是人々在なり(以下略)」とある。
これは、「人々尽有光明在」とあった「雲門」の言葉を、例えば「即心是仏」のように、あれこれ入れ替えて書かれたのである。その理はただ同じことである。よくよく静かに考えをめぐらすべきである。
合掌
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