〔『聞書』私訳〕
/「明明の光明は百草なり」とは、「百草」について「根茎」以下を「光」と言えば、すでに「与奪」である。ただ「明明の光明」は「明明」の「百草」と言うのである。
/「五道」「六道の光明」とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の「六道」であり、「五道」と言う時は、人と修羅は一つになる。
「尽十方界」の道理について、「五道」「六道」の「光明」は説かれるのである。その理由は、「五道」「六道」も、「尽十方界」に漏れないからである。だから世間で言う「五道」「六道」の時は、「光明」とは言えないのである。
/「這裏是什麼処在なればか、説光説明する。云何忽生山河大地なるべし」とは、以前の「五道」「六道」を同じく「光明」と取れば、「五道」「六道」の言葉は理解できないから、「云何忽生山河大地」と言うのである。
「清浄本然、云何忽生山河大地」と問う答えに、また「清浄本然、云何忽生山河大地」と言う、この問答の意である。
生ずることがない道理が「山河大地」であるから、答えも「山河大地」と言うのである。
〔『抄』私訳〕
「しかあれば明明の光明は百草なり。百草の光明、すでに根茎枝葉、花菓光色、いまだ与奪あらず」とある。
今は「百草」をもって「光明」と言う。「百草の光明、すでに根茎枝葉、花菓光色、いまだ与奪あらず」とは、「百草」の上で、いつもの「根茎枝葉、花菓」などの道理がある。
けれども、これ(光明)が彼(百草)を奪って変えるのではなく、ただ無始無終(始めも終わりもなく無限に続いていること)の道理であるところを「与奪あらず」と言うのである。
「五道の光明あり、六道の光明あり。這裏是什麼処在なればか、説光説明する。云何忽生山河大地なるべし」とある。
これは「五道」「六道」をもって「光明」を説くのである。どんなものの所にもある道理であるから「説光説明する」のである。
「清浄本然(一切は本来清浄)であるのに、云何忽生山河大地(云何が忽ちに山河大地を生ず)」と言った答えに、「清浄本然であるのに、云何忽生山河大地」と言った言葉を引かれるのである。
これは「清浄本然」は殊に勝れているのに、どうして「山河大地」の良くないものを同じに談ずるのかという言葉かと思われる。今の「山河大地」と「清浄本然」の言葉は、少しも違うものでない道理をこのように答えるのである。
「長沙道の尽十方界、是自己光明の道取を審細に参学すべきなり。
光明、自己、尽十方界を参学すべきなり」とある。
「長沙」の言葉は、「尽十方界、是自己光明」とある。これは「尽十方界」と「自己」とはまだそれぞれ別であるように思われる。あるいは、「光明」も「自己」の外にあるように一旦思われるところを、「光明、自己、尽十方界」と言えば、「光明」が「尽十方界」である道理が、明らかに理解されるのである。
合掌
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