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「仏光は青黃赤白にあらず」と参学するのは 仏道を学ぶ初心のところである『第十五光明』15-2-2a

 〔『正法眼蔵』原文〕

いまこの文公、これ在家の士俗なりといへども、

丈夫ジョウフの志気シイキあり。


回天転地の材といひぬべし。


かくのごとく参学せん、学道の初心なり。


不如是学フニョゼガクは非道なり。


たとひ講経して天花テンケをふらすとも、

いまだこの道理にいたらずは、いたづらの功夫なり。


たとひ十聖三賢ジュッショウサンゲンなりとも、

文公と同口ドウクの長舌を保任せんとき、発心なり修証なり。




〔『正法眼蔵』私訳〕

今この文公は、在家の俗人であるけれども、
大丈夫(勝れた禅僧)の心意気がある。

(いまこの文公、これ在家の士俗なりといへども、丈夫の志氣あり。)


天子の御心をひっくり返すほどの力量のある人と言えよう。

(回天転地の材といひぬべし。)


このように「仏光は青黃赤白にあらず」と参学するのは、

仏道を学ぶ初心のところである。

(かくのごとく参学せん、学道の初心なり。)


このように学ばないのは、仏道ではない。

(不如是学は非道なり。)


たとえ仏典を講じ天から華が降るようなことがあっても、

まだこの道理に至っていなければ、役に立たない修行なのである。

(たとひ講経して天花をふらすとも、

いまだこの道理にいたらずは、いたづらの功夫なり。)


たとえ十聖三賢(上位の菩薩)の人であっても、文公と同じように「仏光は青黄赤白にあらず」という言葉を自己のものとして保持できたとき、

はじめて発心であり、修証なのである。

(たとひ十聖三賢なりとも、文公と同口の長舌を保任せんとき、発心なり修証なり。)




                     合掌


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