〔『聞書』私訳〕
/「回天転地の材」とは、仏法を知ることである。
/「十聖三賢なりとも」とは、今の参学人(栓慧自身)が、どうして「十聖三賢」(天台教家の者)に勝ることがあろうか。「賢」「聖」は身に戒律を犯すことなく、心に懈怠なく精進するので、今の学人(栓慧自身)などは同日に論ずることができない。けれども、師匠から弟子へ相承する仏法は、「十聖」も「三賢」も及ばないから、このように言うのである。
「十聖三賢」が、この理をわきまえると言えば、また「十聖三賢」とすべきではない。また、「十聖三賢」と、我々が仏法を始めて習うのとでは、勝劣は天地ほどの隔たりがある。
けれども、我々は幼少の皇子(仏法を始めて習う者に過ぎないが、それなりに嫡々相承する仏法のなんたるかをわきまえた者)である。「十聖三賢」は才学が身に余る臣下であるが、種性(さとりを開く種となる素質や素性)が上下異なるのである。同じでない理由はこのようであるから、声聞の持戒は菩薩の破戒に及ばないのである。
/「文公と同口の長舌を保任せんとき、発心なり修証なり」とは、「同口」とは「仏光」を「青黄赤白にあらず」と心得る所を言うのである。
「長舌」とは仏法を説き示す所を示すのである。「保任」とは、この理コトワリを尽十方界の内外に保ち任せることである。このような所を指して、「発心」とも「修証」とも言うのである。このようでなければ、「発心」「修証」として許すことはできないからである。
合掌
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