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光明を自己の身体に引き付けて参学することはない『第十五光明』15-1-4a

〔『正法眼蔵』原文〕

 転疎転遠の臭皮袋おもはくは、仏光も自己光明も、

赤白青黄シャクビャクショウオウにして火光・水光のごとく、

珠光玉光のごとく、龍天の光のごとく、

日月の光のごとくなるべしと見解ケンゲす。


或従ワクジュウ知識し、或従経巻すといへども、

光明の言教ゴンキョウをきくには、螢光ケイコウのごとくならんとおもふ、

さらに眼睛ガンゼイ頂寧チンネイの参学にあらず。


漢より隋唐宋および而今ニコンにいたるまで、

かくのごとくの流類ルルイおほきのみなり。


文字の法師に習学することなかれ、

禅師胡乱ウロンの説、きくべからず。


 いはゆる仏祖光明は尽十方界なり、

尽仏尽祖なり、唯仏与仏なり。


仏光なり、光仏なり。


仏祖は仏祖を光明とせり。


この光明を修証して、作仏し、坐仏し、証仏す。


このゆゑに、

「此光照東方万八千仏土シコウショウトウホウマンハッセンブツド」の道著ドウヂャクあり。


これ話頭光ワトウコウなり。


「此光」は仏光なり、「照東方」は東方照なり。


東方は彼此の俗論にあらず、

法界の中心なり、拳頭ケントウの中央なり。


東方を罣礙ケイゲすといへども、光明の八両なり。


此土に東方あり、他土に東方あり、

東方に東方ある宗旨を参学すべし。




〔『正法眼蔵』私訳〕

 光明から疎遠となっている者たちが思うには、

仏の光明も自己の光明も、赤・白・青・黄と色とりどりで、

火の光や水の光のようであり、珠の光や玉の光のようであり、

龍神の光のようであり、日月の光のようであろうと解する。

(転疎転遠の臭皮袋おもはくは、仏光も自己光明も、

赤白青黄にして火光水光のごとく、珠光玉光のごとく、

龍天の光のごとく、日月の光のごとくなるべしと見解す。)


或いは善知識に従って学び、或いは経典に従って学ぶといっても、

光明の教えを聞けば、蛍の光のようなものであろうと思い、

決して光明を自己の身体に引き付けて参学することはない。

(或従知識し、或従経巻すといへども、光明の言教をきくには、

螢光のごとくならんとおもふ、さらに眼睛頂額の参学にあらず。)


漢から隋・唐・宋及び現在に至るまで、

このような者たちだけ大勢いる。

(漢より隋唐宋および而今にいたるまで、かくのごとくの流類おほきのみなり。)


文字の研究ばかりしている法師に従って学んではいけない。

またいい加減な禅師たちの胡散臭い説を聞いてはいけない。

(文字の法師に習学することなかれ、禅師胡乱の説、きくべからず。)


 ここで言う仏祖の光明とは、尽十方界(全世界)のことであり、

仏祖の全身心のことであり、あらゆる仏のことである。

(いはゆる仏祖の光明は尽十方界なり、尽仏尽祖なり、唯仏与仏なり。)


仏の光であり、光が仏である。

(仏光なり、光仏なり。)


仏祖は仏祖を光明としている。

(仏祖は仏祖を光明とせり。)


この光明を修証して、仏になり、坐る仏になり、

この身の上に仏を露わすのである。

(この光明を修証して、作仏し、坐仏し、証仏す。)


それゆえ、〔『法華経』に、仏が『法華経』を説かれる前に、眉間から白毫光を出し、〕「此光照東方万八千仏土」(この光が東方一万八千の仏の世界を照らす)という言葉があるのである。

(このゆゑに、此光照東方万八千仏土の道著あり。) 


これが長沙が説く光明である。

(これ話頭光なり。)


この光は仏の光であり、「照東方」とは東方を照らすで、尽十方界が仏の光明であるということである。

(此光は仏光なり、照東方は東方照なり。)


ここで言う東方は、世間で言う西や南北に対する東ではなく、

世界の全体であり、自己の全体である。

(東方は彼此の俗論にあらず、法界の中心なり、拳頭の中央なり。)


光明が東方を覆うといっても、東方は光明と同じである。

(東方を罣礙すといへども、光明の八両なり。)


この国土(娑婆)に東方があり、他の国土(極楽)に東方があり、

東方というときはすべて東方であるという根本の主旨を参学すべきである。

(此土に東方あり、他土に東方あり、東方に東方ある宗旨を参学すべし。)



光明を自己の身体に引き付けて参学することはない『第十五光明』15-1-4b

                      合掌


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