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光明を自己の身体に引き付けて参学することはない『第十五光明』15-1-4b

 〔『聞書』私訳〕

/「光仏」とは、「光」が「仏」である意である。


/「話頭光」とは、つまり、「仏光」である。経で「東方万八千土」を照らすと言い、次の言葉で「諸方も亦然り」と言えば、「東方」のように南方も北方も西方も照らすと思われるが、まずこの「東方万八千土」〔を照らすという意味〕を心得ての上のことである。宗意からは、この「東方」を「法界の中心なり」と言う。「拳頭の中央なり」と言う上は、「仏」を「中央」に置いて「光」が「東方」へ射すと心得てはいけない。「法界の中心」「拳頭の中央」ということで心得るべきである。さらに言えば、「光」も「尽十方界」、「東方」も「尽十方界」の「東方」であり、これを「諸方も亦然り」と解するのである。経で言う「十方仏土中唯有一乗法」は、「東方仏土中唯有一光明」と心得るべきである。南西北もまた同じである。


/「仏光」も「自己光明」もというのは、「仏光」と「自己光明」とは同じなのか、異なるのか。異なる理由がわからない。同じであれば、「光明」も「仏光」も二つ並べて言うことはできない。どういうことか。これは、異ではないのである、同ではないのである。


/「胡乱の説」とは、劣っているという言葉である。


/「光明の八両なり」とは、「光明」は「東方」の一方に限らないので、「光明の八両なり」と言うのである。そのまま「東方」を指して「八両」と使う、半斤(1斤は16両)であるからである。西方浄土も、彼の浄土の西にあるであろう仏土では、「東方」と言うのである。


/「他土に東方あり、東方に東方ある宗旨」とは、

この意味合いであり、同じことである。




〔『抄』私訳〕

「転疎転遠の臭皮袋おもはくは、仏光も自己光明も、赤白青黄にして火光水光のごとく、珠光玉光のごとく、龍天の光のごとく、日月の光のごとくなるべしと見解す。或従知識し、或従経巻すといへども、光明の言教をきくには、螢光のごとくならんとおもふ、さらに眼睛頂額の参学にあらず。漢より隋唐宋および而今にいたるまで、かくのごとくの流類おほきのみなり。文字の法師に習学することなかれ、禅師胡乱の説、きくべからず」とある。

文の通りである。


「いはゆる仏祖光明は尽十方界なり、尽仏尽祖なり、唯仏与仏なり」とある。我々が日頃考えている「光明」でないことが、

文面から明らかである。


「仏光」と言えば、やはり「照らす」仏(能)と「照らされる」もの(所)の別があるように思われるが、「光仏」と言えば、能所のない道理があらわれて理解される。だから、「仏光」「光仏」と言い、「仏祖」は「仏祖」を「光明」とするのである。


「この光明」の道理を「修証して、作仏し、坐仏し、証仏」するのである。これが坐禅の姿である。「此の光東方万八千仏土を照らす」は経文である。「これ話頭光なり。此光は仏光なり」と言う、文の通りである。「照東方は東方照なり」とは、西方より「光」が射して「東方」を「照」らすと心得るが、ここは「東方」を「光」と言うので、「照東方は東方照なり」と言われるのである。


我々の眼の対象の上でも、「東方」の定まった在処アリカはない。

西からは「東方」と指し、「東方」からは西と思い、まして、

「仏法」の「東方」に、決して彼此の辺際がないから、

「東方は彼此の俗論にあらず、法界の中心なり、拳頭の中央なり」と言うのである。


四方に対して「東方」と言われ、この四方はまた我に対しても四方と言われるのである。今はこのように、「法界の中心なり、拳頭の中央なり」と言う。この「中央」の言葉も、四方に対する「中央」ではなく、全て「中央」なのである。


「拳頭の中央」という意は上と同じである。また、「東方を罣礙すといへども、光明の八両なり」とは、「光明」は照らす「光」、「東方」は照らされる「土」とばかりいつも思っているが、今(宗意)はこの「東方」を「光明」と説くところを「光明の八両なり」と言うのである。


「照らす」「光明」と「照らされる」「土」が、共に「光明」であるから「八両」と言われるのである。そのわけは、十六両を一斤と言い、「八両」は半斤であり、「八両」と半斤はただ同じことである。だから、「東方」と「光明」がただ同じものであるから、「光明の八両」と言うのである。


「此土に東方あり、他土に東方あり」とは、「東方」の上の「此土」「他土」である。「東方」と言う時は、ほかの西南北はない。この道理を「東方に東方」があると言うのである。


                      合掌


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