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自己の光明を知る者などいるはずがなかった『第十五光明』15-1-3a

〔『正法眼蔵』原文〕

法を二祖大祖禅師に正伝せりし、これ仏祖光明の親曾シンゾウなり。


それよりさきは仏祖光明を見聞せるなかりき、

いはんや自己の光明をしれるあらんや。


たとひその光明は頂寧 チンネイより担来して相逢すといへども、

自己の眼晴に参学せず。


このゆゑに、光明の長短方円をあきらめず、

光明の巻舒斂放ケンジョレンバウをあきらめず。


光明の相逢を厭却エンキャクするゆゑに、光明と光明と転疎転遠なり、

この疎遠たとひ光明なりとも、疎遠に罣礙ケイゲせらるゝなり。



〔『正法眼蔵』私訳〕

法を二祖大祖禅師に伝えられた。

これが仏祖の光明に親しんだ始まりである。

(法を二祖大祖禅師に正伝せりし、これ仏祖光明の親曾なり。)


それ以前は、仏祖の光明を見ることも聞くこともなかった。

まして自己の光明を知る者などいるはずがなかった。

(それよりさきは仏祖光明を見聞せるなかりき、いはんや自己の光明をしれるあらんや。)


たとえその光明が自己の頭頂から足先まで全身に具わり常に光明に出会っていても、自己の目に引き付けて参学することをしない。

(たとひその光明は頂寧より担来して相逢すといへども、自己の眼晴に参学せず。)


そのために、光明の長短方円など種々の相を明らめず、

光明が巻き斂オサめ舒べ放つこと(発心修行菩提涅槃)を明らめないのである。

(このゆゑに、光明の長短方円をあきらめず、光明の巻舒斂放をあきらめず。) 


光明と出会うことをいとうから、

光明と光明がいよいよ疎遠になるのである。

(光明の相逢を厭却するゆゑに、光明と光明と転疎転遠なり。)


この疎遠も光明であるけれども、

疎遠であるために光明が遮られるのである。

(この疎遠たとひ光明なりとも、疎遠に罣礙せらるゝなり。)




                   合掌


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