〔『聞書』私訳〕
/「光明と光明と転疎転遠なり」とも、「疎遠に罣礙せらるゝなり」というのは、間に物を置いて隔てる時は「光明と光明と転疎転遠なり」ということである。事実を明らかにさせる時は「光明と光明」が明らかになるのである。「罣礙せらるゝ」とは、「光明」に「光明」が遮られる意である。
「唯仏与仏」(ただ仏と仏のみ)をもって「光明」とすれば、「諸法実相」(一切の存在は真実のすがた)の道理を明らかにすることができる。仏光(仏身の光)には常光(仏身に常に備わる光)というものがあり、遠くを照らすのではなく、ただ一尋ヒトヒロ(両手を左右に伸ばした長さ)二尋と言い、四尺五尺一丈ほどのことである。遠くを照らすのは体・用(本体・その作用)の意である。
〔『抄』私訳〕
「たとひその光明は頂寧より担来して相逢すといへども、
自己の眼晴に参学せず」とある。
これは、「光明」の道理は穏健に関わらず、「頂寧 」も「光明」であるが、祖師の西来以前は「自己の眼晴に参学せず」という意である。本来この「光明」の道理は担って来たけれども、この道理を知らないと言うのである。祖師の西来の後に、この道理を聞くのである。
「このゆゑに、光明の長短方円をあきらめず、光明の巻舒斂放をあきらめず。光明の相逢を厭却するゆゑに、光明と光明と転疎転遠なり、この疎遠たとひ光明なりとも、疎遠に罣礙せらるゝなり」とある。
「光明の相逢を厭却す」とは、今の「光明」は、照らすもの照らされるものの義ではない。「光明」の外にまた交わるものがないから、「光明の相逢を厭却す」とも「光明と光明と転疎転遠なり」とも言われるのである。つまり、今の「光明」を談ずる道理は、「光明」が「光明」を談じるのであり、光明」と「光明」を「相逢」とも言うのである。この道理を知らないのを、「相逢を厭却する」というのである。
「この疎遠たとひ光明なりとも、疎遠に罣礙せらるゝなり」の「この疎遠たとひ光明なり」とは、「光明」であるものが「光明」であると知らない所を「疎遠」と使うのである。しかし、知らない所も「光明」でないことはない。「疎遠」である所がそのまま「光明」である道理が、「疎遠に罣礙せらるゝ」と言われるのである。
合掌
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