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空華より開く全大地がある『第十四古鏡』完14-7-2a

 〔『正法眼蔵』原文〕 

 よのつねの諸方は、空花の空花を論ずるには、

於空オクウに生じてさらに於空に滅するとのみ道取す。


従空しれる、なほいまだあらず。


いはんや「従地ジュウヂ」としらんや。


たゞひとり石門のみしれり。


従地といふは、初中後つひに従地なり。


ホツは開なり。


この正当恁麼のとき、従尽大地発なり、従尽大地開なり。


 「蓋国買無門」は、蓋国買はなきにあらず、「買無門」なり。


従地発の空華あり、従花開の尽地あり。


 しかあればしるべし、空華は、地空ともに開発カイホツせしむる宗旨なり。



正法眼蔵空華第十四

爾時ニイジ寛元元年癸卯ミズノトウ、三月十日、在観音導利興聖悪林寺示衆




〔『正法眼蔵』私訳〕

世間のいろいろな所で、空華について論ずるときは、

空に生じ更に空に滅すると言うだけである。

(よのつねの諸方は、空花の空花を論ずるには、

於空に生じてさらに於空に滅するとのみ道取す。)


空より発することを知っている人は、なおまだいない。

(従空しれる、なほいまだあらず。)


まして、地より発することを知っている人はいない。

(いはんや従地としらんや。)


ただ独り石門だけが知っている。

(ただひとり石門のみしれり。)


地より発するとは、初めも中も終わりも、

結局地より発するということである。

(従地といふは、初中後つひに従地なり。)


発は開である。

(発は開なり。)


まさにその時、空華は全大地より発するのであり、全大地より開くのである。(この正当恁麼のとき、従尽大地発なり、従尽大地開なり。)


「国中まわって買おうとしても門がない」とは、国中に空華を買う人がいないのではなく、「買う門が無い」ということである。

(蓋国買無門は、蓋国買はなきにあらず、買無門なり。)


全大地より発する空華があり、空華より開く全大地がある。

(従地発の空華あり、従花開の尽地あり。)


そうであるから、知らなければいけない、

空華は、全大地と全虚空を共に開かせ根本なのである。

(しかあればしるべし、空華は、地空ともに開発せしむる宗旨なり。)



正法眼蔵第十四空華の巻終わる。

時に、寛元元年(1243年)癸卯キスイノウサギ

三月十日、観音導利興聖宝林寺に在って大衆に示す。


空華より開く全大地がある『第十四古鏡』完14-7-2b


                   合掌


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