〔『正法眼蔵』原文〕
よのつねの諸方は、空花の空花を論ずるには、
於空オクウに生じてさらに於空に滅するとのみ道取す。
従空しれる、なほいまだあらず。
いはんや「従地ジュウヂ」としらんや。
たゞひとり石門のみしれり。
従地といふは、初中後つひに従地なり。
発ホツは開なり。
この正当恁麼のとき、従尽大地発なり、従尽大地開なり。
「蓋国買無門」は、蓋国買はなきにあらず、「買無門」なり。
従地発の空華あり、従花開の尽地あり。
しかあればしるべし、空華は、地空ともに開発カイホツせしむる宗旨なり。
正法眼蔵空華第十四
爾時ニイジ寛元元年癸卯ミズノトウ、三月十日、在観音導利興聖悪林寺示衆
〔『正法眼蔵』私訳〕
世間のいろいろな所で、空華について論ずるときは、
空に生じ更に空に滅すると言うだけである。
(よのつねの諸方は、空花の空花を論ずるには、
於空に生じてさらに於空に滅するとのみ道取す。)
空より発することを知っている人は、なおまだいない。
(従空しれる、なほいまだあらず。)
まして、地より発することを知っている人はいない。
(いはんや従地としらんや。)
ただ独り石門だけが知っている。
(ただひとり石門のみしれり。)
地より発するとは、初めも中も終わりも、
結局地より発するということである。
(従地といふは、初中後つひに従地なり。)
発は開である。
(発は開なり。)
まさにその時、空華は全大地より発するのであり、全大地より開くのである。(この正当恁麼のとき、従尽大地発なり、従尽大地開なり。)
「国中まわって買おうとしても門がない」とは、国中に空華を買う人がいないのではなく、「買う門が無い」ということである。
(蓋国買無門は、蓋国買はなきにあらず、買無門なり。)
全大地より発する空華があり、空華より開く全大地がある。
(従地発の空華あり、従花開の尽地あり。)
そうであるから、知らなければいけない、
空華は、全大地と全虚空を共に開かせ根本なのである。
(しかあればしるべし、空華は、地空ともに開発せしむる宗旨なり。)
正法眼蔵第十四空華の巻終わる。
時に、寛元元年(1243年)癸卯キスイノウサギ、
三月十日、観音導利興聖宝林寺に在って大衆に示す。
合掌
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