〔『聞書』私訳〕
/「空」の上でこそ「開」も「滅」もあり、そのまま「空」が「華」と知らないのである。衆生と説けば仏性が隠れ、坐禅すれば殺仏であるほどのことである。
〔『抄』私訳〕
「よのつねの諸方は、空花の空花を論ずるには、於空オクウに生じてさらに於空に滅するとのみ道取す。従空しれる、なほいまだあらず。いはんや従地ジュウヂとしらんや。たゞひとり石門のみしれり。従地といふは、初中後つひに従地なり。発ホツは開なり」とある。
「空花の空花を論ずる」という言葉は、理解しがたいよ。「空花」の外に誰かいて「空花」について談ずるのか。つまり、「空花」について談ずる所が、「空花の空花」を談ずるということである。
「空華は於空に生じてさらに於空に滅するとのみ道取する」のは、凡夫の考えである。「従空」をなお知らず、「いはんや従地」を「しらんや」とあるのは、「従空」と言えば彼此去来の法と聞こえる。この「従」は、ただ「空」の道理の「従地」の上の「従」であるから、「従地といふは初中後つひに従地なり。発は開なり」というのである。
「この正当恁麼のとき、従尽大地発なり、従尽大地開なり」とある。
この道理は、「尽地」を「発」と使い、「尽大地」を「開」と使うのである。「従」は以前述べたように、「大地」の上の「従」であり、伝わることではない。
「蓋国買無門は、蓋国買はなきにあらず、買無門なり。従地発の空華あり、従花開の尽地あり。しかあればしるべし、空華は、地空ともに開発カイホツせしむる宗旨なり」とある。
「蓋国買はなきにあらず、買無門なり」とは、「蓋国」の道が現成する時は「買無門」なのである。「従地発の空華あり、従花開の尽地あり」とは、「従」も「発」も「空華」も「開」も「尽地」も、ただ同じものである道理を、例のようにあれこれ作り変え入れ替えて書かれるのである。
ただ、つまるところ、一法究尽の理が、尽きること無く互いに枝葉花果荘厳となって説かれるのだと心得るべきである。だから、結びの言葉で、「空華は、地空ともに開発せしむる宗旨なり」と結ばれるのである。
合掌
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