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十方の仏は真実でないのではなく、 もともと眼中の花なのである『第十四古鏡』14-6-3a

〔『正法眼蔵』原文〕

 しるべし、十方仏の実ならざるにあらず、

 もとこれ眼中花なり。


十方諸仏の住位せるところは眼中なり、

眼中にあらざれば諸仏の住処にあらず。


眼中花は、無にあらず有にあらず、

空にあらず実にあらず、

おのづからこれ十方仏なり。


いまひとへに十方諸仏と欲識すれば、

眼中花にあらず、

ひとへに眼中花と欲識すれば、

十方諸仏にあらざるがごとし。


かくのごとくなるゆゑに、

「明得」「未明得」、

ともに眼中花なり、十方仏なり。


欲識および不是、すなはち現成の

「奇哉キサイ」なり、大奇タイキなり。


 仏々祖々の道取する、空華地華の宗旨、

 それ恁麼の逞シン風流なり。


空華の名字ミョウジは経師論師もなほ聞及モンギュウすとも、

地華の命脈は、仏祖にあらざれば

見聞の因縁あらざるなり。


 地花の命脈を知及せる

 仏祖の道取あり。



〔『正法眼蔵』私訳〕

知るべきである、

十方の仏は真実でないのではなく、

もともと眼中の花である。

(しるべし、十方仏の実ならざるにあらず、

 もとこれ眼中花なり。)


十方の諸仏が住むところは眼中であり、

眼中でなければ諸仏が住む処ではない。

(十方諸仏の住位せるところは眼中なり、

眼中にあらざれば諸仏の住処にあらず。)


眼中の花は、無でもなく有でもなく、

空でもなく実でもない、

自ずから十方の仏である。

(眼中花は、無にあらず有にあらず、

 空にあらず実にあらず、

 おのづからこれ十方仏なり。)


今ひたすら十方の諸仏を識りたいと思うなら、

それは眼中の花ではなく、

十方の諸仏だけである。

ひたすら眼中の華を識りたいと思うなら、

それは十方の諸仏ではなく、

眼中の花だけである。

(いまひとへに十方諸仏と欲識すれば眼中花にあらず、

 ひとへに眼中花と欲識すれば十方諸仏にあらざるがごとし。)

〔一方を証するときは一方はくらしの道理。〕


このようなわけで、

「明らめることができる」のも、

「まだ明らめることができない」のも、

どちらも眼中の花であり、

十方の仏なのである。

(かくのごとくなるゆゑに、明得未明得、

 ともに眼中花なり、十方仏なり。)


「識りたいと思う」のも

「そうでない」のも、

その時に現成する不思議なことであり、

はなはだめずらしいことである。

(欲識および不是、

 すなはち現成の奇哉なり、大奇なり。)


 仏々祖々が言う、

空華や地華の主旨は、

このように風流なところがあるのである。

(仏々祖々の道取する、空華地華の宗旨、

 それ恁麼の逞風流なり。)


空華の文字は、経典の学者や論典の学者も

聞き及ぶことがあったとしても、

地華の命脈(血脈不断なるいのち)は、

仏祖でなければ見聞きする縁はないのである。

(空華の名字は経師論師もなほ聞及すとも、地華の命脈は、

仏祖にあらざれば見聞の因縁あらざるなり。)


 地華の命脈を知り及んだ仏祖の言葉が〔次の段に〕ある。

 (地花の命脈を知及せる仏祖の道取あり。)


十方の仏は真実でないのではなく、

もともと眼中の花なのである『第十四古鏡』14-6-3b

                    

               合掌


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