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十方の仏はもともと眼中の花である『第十四古鏡』14-6-2a

 〔『正法眼蔵』原文〕

 このゆゑに、瑯椰山ロウヤサン広照大師いはく、


「奇哉十方仏、元是眼中花。

《奇なる哉カナ十方仏、元より是れ眼中花なり。》


欲識眼中花、元是十方仏。

眼中花を識らんと欲オモはば、元モト是れ十方仏なり。》


欲識十方仏、不是眼中華。

《十方仏を識らんと欲はば、是れ眼中華にあらず。》


欲識眼中花、不是十方仏。

《眼中花を識らんと欲はば、是れ十方仏にあらず。》


於此明得、過在十方仏。

《此に於て明得ミントクすれば、十方仏に過在す。》


若未明得、声聞作舞、独覚臨粧

《若し未だ明得せずは、声聞作舞サブし、独覚臨粧リンショウす》」。



〔『正法眼蔵』私訳〕

 このために、瑯椰山の広照大師が言う、

「不思議なことだな、十方の仏はもともと眼中の花である。

(このゆゑに瑯椰山広照大師いはく、「奇なる哉十方仏、元より是れ眼中の花なり」。)


眼中の花を識りたいと思うなら、もともとこれは十方の仏である。

(眼中の花を識らんと欲はば、元是れ十方仏なり。)


十方の仏を識りたいと思うなら、

これは眼中の花ではない〔、十方の仏だけである〕。

(十方仏を識らんと欲はば、是れ眼中華にあらず。)

〔仏に徹底すると眼中の花はない。〕


眼中の花を識りたいと思うなら、

これは十方の仏ではない〔、眼中の花だけである〕。

(眼中花を識らんと欲はば、是れ十方仏にあらず。)

〔眼中の花に徹底すると仏はない。


ここにおいて明らめることができれば、

自己が十方の仏になっているのである。

(此に於て明得すれば、十方仏に過在す。)


もしまだ明らめることができないなら、

仏の声聞が舞い、仏の独覚が歌うであろう。

(若し未だ明得せずは、声聞作舞し、独覚臨粧す。)

                    

十方の仏はもともと眼中の花である『第十四古鏡』14-6-2b


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