〔『聞書』私訳〕
/「広照大師」の段。
「瑯椰山広照大師いはく、『奇哉十方仏、元是眼中花。欲識眼中花、元是十方仏。欲識十方仏、不是眼中華。欲識眼中花、不是十方仏。於此明得、過在十方仏、若未明得、声聞作舞、独覚臨粧』」とある。
「十方仏」と「眼中花」は同じと心得れば、「不是十方仏」とも「不是眼中華」とも言われるのである。
/「於此明得、過在十方仏」(此に於て明得すれば、十方仏に過在す)と言う、
「仏」を過ぎたようなありようは、理解することはできない。「仏」に増減はなく、際限はなく、どうして「過在」することなどできようか。
もっとも、仏法では、有無・善悪・会不会・得不得を分けることがない。「破鏡重ねて照らさず、落花樹に上がり難し」とも言い、「大悟底の人却って迷う時如何」とも言う意である。驚くべきことではない。
/「若未明得、声聞作舞、独覚臨粧」
(若し未だ明得せずは、声聞作舞し、独覚臨粧す)と言う、
これもまた、世間では、「明らめ得たらん時は十方の仏にも過ぎ、明らめ得ざらん時は声聞・縁覚であるか」と思われるが、すでに、「明得」「未明得」はともに「眼中花」であり「十方仏」であるとあるので、〔「若未明得、声聞作舞、独覚臨粧」を〕疑うまでもない。
ただ、文面に見る所は、まさに明らめ得たのは「仏」、まだ明らめ得ないのは「声聞」と思われる。「声聞」の言葉に触れて「作舞」とも言うか。迦葉が威儀を乱し、緊那羅キンナラ(音楽の神)のような声に立って舞うことがあった。このことを引き寄せて記載されるか。
合掌
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