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眼に浮かぶ空の花や実は諸仏が保つところである『第十四古鏡』14-6-1a

〔『正法眼蔵』原文〕

大宋国福州芙蓉山フヨウザン霊訓禅師、初参帰宗寺キッスジ至真禅師而問、如何是仏

《大宋国福州芙蓉山霊訓禅師、初め帰宗寺の至真禅師に参じて問ふ、

如何ならんか是れ仏》。


帰宗云、我向汝道、汝還信否

我れ汝に向つて道はんに、汝また信ずるや否や》。


師云、和尚誠言ジョウゴン、何敢不信《和尚の誠言、何ぞ敢て信ぜざらん》。


帰宗云、即汝便是《即ち汝便ち是なり》。


師云、如何保任《如何が保任せん》。


帰宗云、一翳在眼イチエイザイゲン、空花乱墜クウゲランツイ

《一翳眼に在れば、空花乱墜す》。


いま帰宗道の「一翳在眼、空花乱墜」は、保任仏ホニンブツの道取なり。


しかあればしるべし、翳花の乱墜は諸仏の現成なり、

眼空の花果は諸仏の保任なり。


翳をもて眼を現成せしむ、眼中に空花を現成し、空花中に眼を現成せり。


空花在眼、一翳乱墜。一眼在空、衆翳乱墜なるべし。


ここをもて、翳也エイヤ全機現、眼也全機現、空也全機現、花也全機現なり。


乱墜は千眼なり、通身眼なり。


おほよそ一眼の在時在処、かならず空花クウゲあり、眼花ゲンケあるなり。


眼花を空花とはいふ、眼花の道取、かならず開明なり。



〔『正法眼蔵』私訳〕

大宋国福州の芙蓉山霊訓禅師が、

初めに帰宗寺の至真禅師に参じて問うた、「仏とはどのようなものですか」。

(大宋国福州芙蓉山霊訓禅師、初め帰宗寺の至真禅師に参じて問ふ、如何ならんか是れ仏)。)


帰宗が言った、「我れは汝に答えるが、汝はそれを信じるかどうか」。

(我れ汝に向つて道はんに、汝また信ずるや否や。)


霊訓が言った、「和尚さまの誠のお言葉を、

どうして信じないことなどあるでしょうか」。

(師云、和尚誠言、何敢不信(和尚の誠言、何ぞ敢て信ぜざらん)。)


帰宗が言った、「すなわち汝が仏だ」。

(帰宗云、即汝便是《即ち汝便ち是な》)。)


霊訓が言った、「どのように保てばいいでしょうか」。

(師云、如何保任(如何が保任せん)。)

〔問うているようであるが、「いかなるものもすべて保任仏(仏を保っている仏)ですね」と言い抜いているのである。〕


帰宗が言った、「一つの翳(かすみ)眼にあれば、空華が乱れ落ちる」。

(帰宗云、一翳在眼、空花乱墜(一翳眼に在れば、空花乱墜す。)

〔と言っているようであるが、「翳眼(かすみ眼)、それが空華だ」と霊訓が保任仏であることを証明しているのである。


今、帰宗が言った「一つの翳(かすみ)眼にあれば、空華が乱れ落ちる」とは、仏を保っている仏の言葉である。

(いま帰宗道の一翳在眼空花乱墜は、保任仏の道取なり。)


だから知るべきである、(かすみ)によって華が乱れ落ちるのは諸仏の現成であり、眼に浮かぶ空クウの花や実は諸仏が保つところである。

(しかあればしるべし、翳花の乱墜は諸仏の現成なり、眼空の花果は諸仏の保任なり。) 


をもって眼を現成させ、眼の中に空華を現成し、

空華の中に眼を現成するのである。

(翳をもて眼を現成せしむ、眼中に空花を現成し、空花中に眼を現成せり。)

翳と眼と空華は同じである。〕


〔「一つの翳が眼にあれば空華が乱れ落ちる」とは、また〕「空華が眼にあれば一つのが乱れ落ちる」であり、「一つの眼が空クウにあれば多くのが乱れ落ちる」のでもある。

(空花在眼、一翳乱墜。一眼在空、衆翳乱墜なるべし。)


ここによって、翳も全分のはたらきの現れであり、眼も全分のはたらきの現れであり、空も全分のはたらきの現れであり、華も全分のはたらきの現れである。

(ここをもて、翳也全機現、眼也全機現、空也全機現、花也全機現なり。)


乱れ落ちるとは千眼のことであり、全身が眼であるということである。

(乱墜は千眼なり、通身眼なり。)


そもそも、この一隻眼(保任仏:我々)がある時とある場所には(いつでもどこでも)、必ず空華空として成立する真実のありよう)があり、眼の華があるのである。

(おほよそ一眼の在時在処、かならず空花あり、眼花あるなり。)


このように眼の華を空華と言う、この眼の華の表現は、

必ず心地を明らかにするのである。

(眼花を空花とはいふ、眼花の道取、かならず開明なり。)


眼に浮かぶ空の花や実は諸仏が保つところである『第十四古鏡』14-6-1b


                     合掌


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