〔『聞書』私訳〕
/霊訓禅師の段
「大宋国福州芙蓉山霊訓禅師、初参帰宗寺至真禅師問、如何是仏
《大宋国福州芙蓉山霊訓禅師、初め帰宗寺の至真禅師に参じて問ふ、
如何ならんか是れ仏》。帰宗云、我向汝道、汝還信否
《我れ汝に向つて道はんに、汝また信ずるや否や》。
師云、和尚誠言ジョウゴン、何敢不信《和尚の誠言、何ぞ敢て信ぜざらん》。
帰宗云、即汝便是《即ち汝便ち是なり》。
師云、如何保任《如何が保任せん》。
帰宗云、一翳在眼、空花乱墜《一翳眼に在れば、空花乱墜す》」とある。
「一翳在眼、空花乱墜」という言葉があり、これについて引用されるのが
この巻と思われる。けれども、「如何是仏」(如何ならんか是れ仏)の言葉から事が起っているので、これはもっぱら仏法を示す言葉である。
〔「一翳在眼、空花乱墜」と答えているが、〕「一翳在眼」と言うならば、
「翳」がないものは、「空華」は見ることができないことになる。
そうであれば、「諸法は実相」とも「三界は唯心」とも見ることは
できないことになるが、それは仏法の本意ではない。
この問答の言葉を理解すると、世間で言うのと、今宗門で常に言うのとは大変違うのである。
芙蓉と帰宗ほどの二人の尊宿(特に優れた有徳有道の僧)が、どうして改めて、法報応の三身の仏だ、あるいは毘婆尸仏ビバシブツ・尸棄仏シキブツだ、迦葉仏カショウブツ・釈迦仏だというほどの事に、不審があって、問われるべきだろうかと
先ず気を付けるべきである。
〔「如何是仏」に対して、本覚法門は、〕「有為ウイ(造られるもの)の報仏は夢中の権果ゴンカ(仏果)、無作三身ムササンジン(ありのままが仏の顕れ:本覚法門を代表する思想)は覚前(悟る前)の実仏」などと言い、また、「もし色を以って我を見、音声を以って
我を求めれば、この人邪道を行じ、如来を見ること能わず」などと言う時に、
〔宗意の「如何是仏」とは、本質的に異なるから、〕今始めて教(本覚法門)で談ずる仏を問うことなどあるはずがないのである。
/霊訓禅師が問う、「如何是仏」。
世間では、「如何なるかこれ仏」と読んで、仏とは何かを問うのだと解するが、
宗門では、そのまま問いをもって答えとし、「如何なるも是れ仏」と言うのである。
〔客観的に仏を求めるのではないから、〕「仏」の面目は隠れ、
〔主客が相対する〕知見解慧が及ばないので〔「如何是仏」は〕問いではない。「仏」の面目が現成して、一塵の上にも、法界(世界)の上にも現れるのである。「仏」を際限なく言い得ているところを「如何是仏」と問うのである。この問いはこのように知不知にわたって心得なければいけない。
問いとなり答え(如何なるも是れ仏)となるこの用法を知るべきである。
/帰宗禅師が言う、「我向汝道、汝還信否」(我れ汝に向つて道はんに、汝また信ずるや否や)。
これもまた、世間では、「我れ汝に向つて言はん、汝信ずるや否や」と読んで、
やはり仏法を示す言葉とは聞き難いが、宗門で言うのは、「我れ汝に言う」と心得るのである。
「言はん」と言って、言うことを前途におくのではない。「我れ」と「汝」は決して別ではない、「汝に非ず誰に非ず」と言うから。
〔この場合〕「信」は伝であり明であるから、「仏」を問う時、「汝」と言い
「信」と言うところに現れるのである。
「信ずるや否や」とは、この言葉で信不信を定めてはならないという意である。。「彫龍を愛し、真龍が来る時」のように、「仏」の有り様がどのように
解すべきものか定まらないのである。
/霊訓禅師が言う、「和尚誠言、何敢不信」(和尚の誠言、何ぞ敢て信ぜざらん)。
これも、和尚の言葉を「いかがせざらん」と言うと心得るであろうが、
今はそうではない。この言葉は「汝に非ず誰に非ず」という「汝」
であるから、またこの「信」は「和尚」の上にあり、
三世の諸仏も六代祖師も、「和尚の誠言」なのである。
/帰宗禅師が言う、「即汝便是」(即ち汝、便ち是れ)。《傍注:この言葉を待たず、「我向汝道、汝還信否」の言葉の時に、「仏」は現れるのである。》
これもまた、世間で心得る「即」ではなく、「汝」でもない。
「即汝」は「汝に非ず誰に非ず」の「汝」である。「便是」は「仏」である。
/霊訓禅師が言う、「如何保任」。
これもまた、「保任」し「保任」しないことがあるのを、
「如何にしてか保任すべき」と言うと、世間では心得るが、
今の仏法ではそうではない。
「便是」を「仏」と心得たからには、「保任」も「仏」であるから、「空花乱墜は、保任仏の道取なり」と言うのである。
「即汝便是」というのはともかくも、「保任」がはっきりしないと思われるが、そうではない。
「保」の言葉はまた不信に似ているが、これもまた、「我向汝道」という
言葉がそのまま「仏」なのである。
「信」は明であり、伝である。「我向汝道」の言葉こそ「信」であり、
明であり、伝である。〔宗意で言えば〕「汝得吾皮肉骨髄」と言い、
ものを得たのに似ている。「我向汝道」の言葉が道理を説き尽くして
いるのである。これが「如何是仏」であり、残すところなく仏法の道理が
説き尽くされているのである。
/帰宗禅師が言った、「一翳在眼、空花乱墜」。
世間では、目が病でいるから「空花乱墜」すると心得るが、今(宗意)はそうではない。「翳」も「仏」の病であり、「眼」も「仏眼」である。「花」も「乱墜」もみな「仏」であり、全機なのである。
「乱墜」は無意味に落ちて壊れたように聞こえるが、そうではない。
もし無意味なら、作仏(仏になる)・作祖(祖になる)も無意味である。
また、作仏・作祖の作は、昨日までなかったものが、
今日なったということではない。「乱墜」は諸法が現成することである。
一仏の身が法界であれば、「仏身は塵々重々に示現する」(仏身が塵がつもり重なるようにこの世に現れる)のは、諸仏が現成するのである。
〔『抄』私訳〕
霊訓禅師と至真禅師の問答は、文の通りである。
「一翳在眼、空花乱墜」の言葉は、「保任仏の道取なり」とほめられるのである。
「しるべし、翳花の乱墜は諸仏の現成なり」とある。
「一翳」とある「翳」(かすみ)を、ここでは「翳花の乱墜は諸仏の現成なり」と説かれる。
つまり、「一翳」といって、眼の一つの病と心得ている「翳」が、
今は「諸仏の現成なり」と言われる。
また、「眼空の花果は諸仏の保任なり。翳をもて眼を現成せしむ、
眼中に空花を現成し、空花中に眼を現成せり。」と言う。
また「眼空の花果」という言葉が出て来る。
これもまた、「諸仏の保任なり」と言い、「翳をもて眼を現成せしむ」などと言う。これはつまり、「翳」「眼」「空花」などが、ただ同じものである道理を
あれこれ取り替え入れ替えてあれこれとこれを解釈されるのである。
この道理が落ち着く所は、「空花在眼、一翳乱墜。一眼在空、衆翳乱墜なるべし。
ここをもて、翳也エイヤ全機現、眼也全機現、空也全機現、花也全機現なり。乱墜は千眼なり、
通身眼なり。おほよそ一眼の在時在処、かならず空花あり」ということである
。つまり、「即心是仏」をあれこれ入れ替えて書かれるのと同じである。
「翳も全機現(全分のはたらき)
、眼も全機現、空も全機現、花も全機現」である道理に落ち着くのである。
「乱墜」はまた「千眼なり、通身眼なり」とある。これは観音を談じた時は、
尽界が「眼」であるから、不見の道理である。「通身眼」もまた同じく「乱墜」
と言えば、乱れ散っているように心得られるであろう。
「千眼」ほどの「乱墜」の「眼」であり、飛乱落花の「乱」である。
「一眼の在時在処、かならず空花あり、眼花あるなり」とある。
「眼」をもって「花」と談ずるから、「眼花」と言う。
「眼花の道取、かならず開明なり」と言うのである。
合掌
ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。

コメント
コメントを投稿