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六根がわずかに動けば、雲に遮えられるのである『第十四空華』14-5-3a

〔『正法眼蔵』原文〕

「六根纔動サイドウ被雲遮ヒウンシャ《六根纔ワズかに動ずれば雲に遮へらる》」。


六根はたとひ眼耳鼻舌身意なりとも、

かならずしも二三にあらず、前後三々なるべし。


動は如須彌山ニョシュミセンなり、如大地なり、如六根なり、如纔動なり。


動すでに如須彌山なるがゆゑに、不動また如須彌山なり。


たとへば、雲をなし水をなすなり。



「断除煩悩重増病《煩悩を断除すれば重ねて病を増す》」。

 

従来やまふなきにあらず、仏病・祖病あり。


いまの智断は、やまふをかさね、やまふをます。


断除の正当恁麼時、かならずそれ煩悩なり。


同時なり、不同時なり。


煩悩かならず断除の法を帯せるなり。



〔『正法眼蔵』私訳〕

〔第四句〕

「六根がわずかに動けば、雲に遮えられるのである。」

〔六根纔動被雲遮《六根纔かに動ずれば雲に遮へらる》。〕 


六根はたとえ眼耳鼻舌身意のいずれであっても、必ずしも普段の六根ではなく、そのはたらきが無辺際にわたる。

〔六根はたとひ眼耳鼻舌身意なりとも、かならずしも二三にあらず、前後三々なるべし。〕

〔眼というときには全世界が眼、耳というときには全世界が耳であるから、この眼がわずかでも動けば、この眼のはたらきが無辺際にわたる。


六根がわずかに動くのは、須弥山世界の中心にそびえる巨大な山そのものであり、大地そのものであり、六根そのものであり、わずかな動きそのものである

〔動は如須弥山なり、如大地なり、如六根なり、如纔動なり。〕


六根が動くのはすでに須弥山そのものであるから、

六根が動かないのもまた須弥山そのものであるからである。

〔動すでに如須彌山なるがゆゑに、不動また如須彌山なり。〕


たとえば、六根が動けば雲を造り水を造るのである。

〔たとへば、雲をなし水をなすなり。〕 


〔第五句〕

「煩悩を断ちきって除けば、重ねて病を増すのである。」

〔断除煩悩重増病《煩悩を断除すれば重ねて病を増す》〕。 


これまで病がないわけではないが、

仏祖になろうとする仏病・祖病がある。

〔従来やまふなきにあらず、仏病祖病あり。〕


今の智によって煩悩を断って除くことは、

病を重ね、病を増すことになる。

〔いまの智断は、やまふをかさね、やまふをます。〕


煩悩を断除するまさにその時、必ずそれは煩悩である。

〔断除の正当恁麼時、かならずそれ煩悩なり。〕


智によって煩悩を断除することは煩悩と同じであるから、同時である。

煩悩は煩悩、智によって煩悩を断除することは智によって煩悩を断除することであるから、同時ではない。

〔同時なり、不同時なり。〕


煩悩は必ず煩悩を断ちきって除く法を持っているのである。

〔煩悩かならず断除の法を帯せるなり。〕



                   

                  合掌


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