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六根がわずかに動けば、雲に遮えられるのである『第十四空華』14-5-3b

〔『聞書』私訳〕

/「六根纔動被雲遮《六根わづかに動ずれば雲にさへらる》と言う、

この「動」は、仏を仏と説くほどの「動」と理解すべきであり、

動きはたらく動とは違うのである。

(天台教学)では、六境をもって動とし、すなわち遮られると言う。

(宗意)は、我々の身に具わっている六根のことではない。

「六根」を解脱するには「六根」をもって解脱するのである。


この「六根」は「二三にあらず」と説き、この「六」は三つを二つ合わせた

ものではないところを、「二三にあらず」と言うのである。

尽十方世界は沙門の一隻眼(片目)であるから、「六根」はみな一尺とも言うのである。

そうであるから、「二三にあらず」と言うのである。


「遮」ということは、一般に、教では「法性真如の月、天に明なれども、

無明業障の雲へだつ」などと言う。

実に、雲を業障だ無明だとたとえる時は悪い意味であるが、

また「雲」には雨を降らせるはたらきがあるとも言い、

僧を「雲」にたとえて雲衲などと言う時は善い意味である。


今の「被雲遮ヒウンシャ」の言葉は、「道眼がふさがれるのは何に遮られるか」と

言う答えに、「眼に遮られる」などと言うほどの「遮」である。

これを「道眼は道に遮られる」とも言うのである。


また、「纔動」の「動」は、動・不動の動でなく、「諸法の仏法なる時節に、

迷悟、生仏ともにあり」というほどの「動」であるから、「須弥山」と言う。

「須弥山」が動かないことを「動」と使うのであると理解すべきである。

全機(全分の働き)の「動」である。


また、「堅く動静を執すれば、三世仏の怨、この外に求めば、魔説に如同す」

の「動」である。およそ、「動」は劣り「不動」は良いということではなく、

決して勝劣はないのである。

「動」「不動」は「須弥山」であるから、尽十方世界と使う「動」である。


「雲をなし水をなす」とは、勢いを広く行き渡らせる本体の言葉であり、

今の「纔動」のことを言うのである。


/「断除煩悩重増病」とは、これも教で言うなら、

「煩悩を断ぜずして涅槃に入ると言えば、

煩悩を断除しようとするのは病を増すことである」などと言うにちがいない。

けれども、この「病」は「仏」となり「祖」となろうとする「病」である。

「仏祖」を「病」と使うので、苦悩の「病」と理解してはならない。


「断除の正当恁麼時、かならずそれ煩悩なり」と言う。

「断除」が「煩悩」であるならば、「重ねて病を増す」と嫌ってはならない。

涅槃生死の所では、生死は真実人体であり、

この涅槃生死を「空華」と言うのである。



〔『抄』私訳〕

「六根纔動被雲遮《六根纔ワズかに動ずれば雲に遮へらる》。

六根はたとひ眼耳鼻舌身意なりとも、かならずしも二三にあらず、

前後三々なるべし。動は如須弥山なり、如大地なり、如六根なり、

如纔動なり。動すでに如須弥山なるがゆゑに、不動また如須彌山なり。

たとへば、雲をなし水をなすなり」とある。


「六根はたとひ眼耳鼻舌身意なりとも、かならずしも二三にあらず、

前後三々なるべし」とは、「眼耳鼻舌身意」は凡夫の生まれながらの

「六根」のようであっても、「二三にあらず」とは、普段の「六根」ではない

という意である。「二三」は「六根」の数である。

「前後三々」とは、例の数量に関わらない意である。


また、「動は如須弥山なり、如大地なり」というこの言葉は理解し難い。

「須弥山」「大地」などは「不動」である証拠に引かれるが、

この言葉は、相応しくなく聞こえる。

もっとも、動・不動のことは、今は言い古されている。

結局、「動すでに如須弥山なるがゆゑに、不動また如須弥山なり」ということ

で、動・不動に関わらない道理である。


「雲に遮へらる」とは、この「六根」が無辺際である道理を

「雲に遮へらる」と言うのである。

「空花」の上(仏の方から)の「六根」の功徳を究め尽くす道理がこのように言われるのである。

世間でも物が大変多いことは、「雲」に霞むようだなどと言うこともある。

仏道では尽十方世界の道理を「雲に遮られる」とも「雲」に霞むようだとも

使うのである。


「断除煩悩重増病《煩悩を断除すれば重ねて病を増す》。

従来やまふなきにあらず、仏病・祖病あり。いまの智断は、やまふをかさね、

やまふをます。断除の正当恁麼時、かならずそれ煩悩なり。

同時なり、不同時なり。煩悩かならず断除の法を帯せるなり」とある。


今は、「仏病・祖病」をもって「病」とするので、悪い病ではないのである。

「断除」を「煩悩」と名付ける。「断除」と「煩悩」は、「同時なり」とも

「不同時なり」とも言うことができる。

「煩悩」と「断除」は、別々の法ではないから、

「煩悩」は「かならず断除の法を帯せるなり」と言うのである。



                         合掌


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