〔『聞書』私訳〕
/「六根纔動被雲遮《六根わづかに動ずれば雲にさへらる》と言う、
この「動」は、仏を仏と説くほどの「動」と理解すべきであり、
動きはたらく動とは違うのである。
教(天台教学)では、六境をもって動とし、すなわち遮られると言う。
今(宗意)は、我々の身に具わっている六根のことではない。
「六根」を解脱するには「六根」をもって解脱するのである。
この「六根」は「二三にあらず」と説き、この「六」は三つを二つ合わせた
ものではないところを、「二三にあらず」と言うのである。
尽十方世界は沙門の一隻眼(片目)であるから、「六根」はみな一尺とも言うのである。
そうであるから、「二三にあらず」と言うのである。
「遮」ということは、一般に、教では「法性真如の月、天に明なれども、
無明業障の雲へだつ」などと言う。
実に、雲を業障だ無明だとたとえる時は悪い意味であるが、
また「雲」には雨を降らせるはたらきがあるとも言い、
僧を「雲」にたとえて雲衲などと言う時は善い意味である。
今の「被雲遮ヒウンシャ」の言葉は、「道眼がふさがれるのは何に遮られるか」と
言う答えに、「眼に遮られる」などと言うほどの「遮」である。
これを「道眼は道に遮られる」とも言うのである。
また、「纔動」の「動」は、動・不動の動でなく、「諸法の仏法なる時節に、
迷悟、生仏ともにあり」というほどの「動」であるから、「須弥山」と言う。
「須弥山」が動かないことを「動」と使うのであると理解すべきである。
全機(全分の働き)の「動」である。
また、「堅く動静を執すれば、三世仏の怨、この外に求めば、魔説に如同す」
の「動」である。およそ、「動」は劣り「不動」は良いということではなく、
決して勝劣はないのである。
「動」「不動」は「須弥山」であるから、尽十方世界と使う「動」である。
「雲をなし水をなす」とは、勢いを広く行き渡らせる本体の言葉であり、
今の「纔動」のことを言うのである。
/「断除煩悩重増病」とは、これも教で言うなら、
「煩悩を断ぜずして涅槃に入ると言えば、
煩悩を断除しようとするのは病を増すことである」などと言うにちがいない。
けれども、この「病」は「仏」となり「祖」となろうとする「病」である。
「仏祖」を「病」と使うので、苦悩の「病」と理解してはならない。
「断除の正当恁麼時、かならずそれ煩悩なり」と言う。
「断除」が「煩悩」であるならば、「重ねて病を増す」と嫌ってはならない。
涅槃生死の所では、生死は真実人体であり、
この涅槃生死を「空華」と言うのである。
〔『抄』私訳〕
「六根纔動被雲遮《六根纔ワズかに動ずれば雲に遮サへらる》。
六根はたとひ眼耳鼻舌身意なりとも、かならずしも二三にあらず、
前後三々なるべし。動は如須弥山なり、如大地なり、如六根なり、
如纔動なり。動すでに如須弥山なるがゆゑに、不動また如須彌山なり。
たとへば、雲をなし水をなすなり」とある。
「六根はたとひ眼耳鼻舌身意なりとも、かならずしも二三にあらず、
前後三々なるべし」とは、「眼耳鼻舌身意」は凡夫の生まれながらの
「六根」のようであっても、「二三にあらず」とは、普段の「六根」ではない
という意である。「二三」は「六根」の数である。
「前後三々」とは、例の数量に関わらない意である。
また、「動は如須弥山なり、如大地なり」というこの言葉は理解し難い。
「須弥山」「大地」などは「不動」である証拠に引かれるが、
この言葉は、相応しくなく聞こえる。
もっとも、動・不動のことは、今は言い古されている。
結局、「動すでに如須弥山なるがゆゑに、不動また如須弥山なり」ということ
で、動・不動に関わらない道理である。
「雲に遮へらる」とは、この「六根」が無辺際である道理を
「雲に遮へらる」と言うのである。
「空花」の上(仏の方から)の「六根」の功徳を究め尽くす道理がこのように言われるのである。
世間でも物が大変多いことは、「雲」に霞むようだなどと言うこともある。
仏道では尽十方世界の道理を「雲に遮られる」とも「雲」に霞むようだとも
使うのである。
「断除煩悩重増病《煩悩を断除すれば重ねて病を増す》。
従来やまふなきにあらず、仏病・祖病あり。いまの智断は、やまふをかさね、
やまふをます。断除の正当恁麼時、かならずそれ煩悩なり。
同時なり、不同時なり。煩悩かならず断除の法を帯せるなり」とある。
今は、「仏病・祖病」をもって「病」とするので、悪い病ではないのである。
「断除」を「煩悩」と名付ける。「断除」と「煩悩」は、「同時なり」とも
「不同時なり」とも言うことができる。
「煩悩」と「断除」は、別々の法ではないから、
「煩悩」は「かならず断除の法を帯せるなり」と言うのである。
合掌
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