〔『正法眼蔵』原文〕
空花の空にさくも、またまたかくのごとし。
さらに余草にさかず、余樹にさかざるなり。
空花の諸色をみて、空菓の無窮ムグウなるを測量シキリョウするなり。
空花の開落をみて、空花の春秋を学すべきなり。
空花の春と余花の春と、ひとしかるべきなり。
空花のいろいろなるがごとく、春時もおほかるべし。
このゆゑに古今の春秋あるなり。
空花は実にあらず、余花はこれ実なりと学するは、
仏教を見聞せざるものなり。
「空本無華」の説をききて、もとよりなかりつる空花のいまある
と学するは、短慮少見なり。
進歩して遠慮あるべし。
〔『正法眼蔵』私訳〕
空華が空に咲くのも、またこのようである。
〔空花の空にさくも、またまたかくのごとし。〕
空華は決して他の草に咲かず、他の木にも咲かないのである。
〔さらに余草にさかず、余樹にさかざるなり。〕
空華のさまざまな色を見て、
空果(空の果実)の限りないことを測り知るのである。
〔空花の諸色をみて、空菓の無窮なるを測量するなり。〕
空華の開落を見て、空華の春秋を学ぶべきである。
〔空花の開落をみて、空花の春秋を学すべきなり。〕
空華の春とほかの花の春は、等しいのである。
〔空花の春と余花の春と、ひとしかるべきなり。〕
空華がいろいろであるように、春の時も多いのである。
〔空花のいろいろなるがごとく、春時もおほかるべし。〕
だから古今の春秋があるのである。
〔このゆゑに古今の春秋あるなり。〕
空華は実在するものではなく、ほかの花はみな実在するものであると考えるのは、仏教を正しく見聞したことがない者である。
〔空花は実にあらず、余花はこれ実なりと学するは、仏教を見聞せざるものなり。〕
「空もと華無し」というの説を聞いて、もともとなかった空華が今ある
と考えるのは、思慮が足らず見識が狭い者である。
〔「空本無華」の説をききて、もとよりなかりつる空花のいまあると学するは、
短慮少見なり。〕
更に進んで深く考えてみなければならない。
〔進歩して遠慮あるべし。〕
合掌
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