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空華が空に咲くのも、またこのようである『第十四空華』14-4-7b

 〔『聞書』私訳〕

/「空花の春と余花の春と、ひとしかるべきなり」と言う、

この「ひとし」という言葉は、それ自体が似ているから「ひとし」と言うのではない。たとえば、鳥の足と馬の足と、「ひとし」ということがある。鳥は足が二つあり、馬は四つある。毛の様子も爪の様子も、まったく似ていない。ただ、足があることを「同じ」と言うのである。十分に理解すべきことである。


/「春時もおほかるべし」とは、昼夜なき世界があり、花が開き萎むのを昼夜とする世界もある。このようであるから「おほかる」と言うのである。「空華」と「桃」「李」を同じと心得るというのは、その上のそれぞれのことである。「桃」「李」の花が咲くのは「翳人」が見るところであり、「空花」も同じなのである。


/「空本無花の説をきゝて、もとよりなかりつる空花のいまあると学するは、短慮少見なり」とあるのは、この「空本無花」の「無」は、無仏性の「無」に学ぶべきである。




〔『抄』私訳〕

「空花の諸色をみて、空菓の無窮なるを測量するなり。空花の開落をみて、空花の春秋を学すべきなり。空花の春と余花の春と、ひとしかるべきなり」とある。


これは「空花の諸色」の道理がこのようであるからには、また「空菓」という道理がないことはない。普通は、花と果は違うが、これは花と果は同じである。「空花」の上の「開落」の道理であり、「空花の春秋」をも知るべきであるというのである。


「空花の春と余花の春と、ひとしかるべき」ではないと言われるべきであろうが、ここは「空花」を談ずる時は、三世諸仏・諸代祖師以下、尽地・尽界は、みな「空花」なのである。また、「春」になって花が咲く時節は、全世界が春である方の一方を取る言葉である。時節と花は離すことができない道理である。


「空花のいろいろなるがごとく、春時もおほかるべし。このゆゑに古今の春秋あるなり。空花は実にあらず、余花はこれ実なりと学するは、仏教を見聞せざるものなり。「空本無華」の説をききて、もとよりなかりつる空花のいまあると学するは、短慮少見なり。進歩して遠慮あるべし」とある。


「春時もおほかるべし」とは「諸色」も多いように「春時もおほかるべし」と言うのである。その「春時」のようにというのは、「春」に付随する言葉のいくつかが、尽きること無く言われるところをこのように言うのである。「空花は実にあらず、余花はこれ実なり」との文は凡見の方を嫌うのである。


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