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もともと花というものは無いけれども『第十四空華』14-4-6a

 〔『正法眼蔵』原文〕

「本無花ホンムケ」なりといへども、今有花コンユウケなることは、

桃李タウリもかくのごとし、梅柳ムイリウもかくのごとし。


梅昨無華ムイサクムケ、梅春有華ムイシュンユウケと道取せんがごとし。


しかあれども、時節到来すればすなはちはなさく花時なるべし、

花到来なるべし。


この花到来の正当恁麼時、みだりなることいまだあらず。


梅柳の花はかならず梅柳にさく。


花をみて梅柳をしる、梅柳をみて花をわきまふ。


桃李の花いまだ梅柳にさくことなし。


梅柳の花は梅柳にさき、桃李の花は桃李にさくなり。


空花の空にさくも、またまたかくのごとし。


さらに余草にさかず、余樹にさかざるなり。




〔『正法眼蔵』私訳〕

「もともと花というものは無い」けれども、今花が有ることは、

桃や李(すもも)もこのようであり、梅や柳もこのようである。

〔本無花なりといへども、今有花なることは、桃李もかくのごとし、梅柳もかくのごとし。〕


梅は昨日まで花は無かったけれども、

梅は今日春になれば花が咲くと言うようなものである。

〔梅昨無華、梅春有華と道取せんがごとし。〕


そうであるから、時節が到来すれば、それは花が咲く花の時であり、

花の到来なのである。

〔しかあれども、時節到来すればすなはちはなさく花時なるべし、

花到来なるべし。〕


この花が到来するまさにその時は、乱れたことはいまだないのである。

〔この花到来の正当恁麼時、みだりなることいまだあらず。〕


梅や柳の花は、必ず梅や柳の木に咲くのである。

〔梅柳の花はかならず梅柳にさく。〕




                      合掌



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