〔『聞書』私訳〕
/「本無花なりといへども、今有花なることは、桃李もかくのごとし」と言う、
一切仏性、無仏性ほどの「空華」である。この「本無花」の言葉は、「今有花」に対して言う時は世間の言葉である。
/「空花の空にさく」とは、仏が仏に成るというほどのことである。
〔『抄』私訳〕
「本無花なりといへども、今有花なることは、桃李もかくのごとし、梅柳もかくのごとし。梅昨無華、梅春有華と道取せんがごとし。しかあれども、時節到来すればすなはちはなさく花時なるべし、花到来なるべし」とある。
世間でも、「桃李」「梅柳」などの花も咲かない時は「無花」である。「花」が咲けば、「今有花」であり、世間の道理でもやはりこのようである。まして仏道の「空本無花」の「道取」は、十分に参学すべきことである。
「梅昨無華」であるけれども「梅春有華」である道理がある。仏道の「有華」「無華」は、尽界が「無華」であり、また尽界が「有華」であり、世間の有無と異なるから仏道であり、仏法なのである。
「この花到来の正当恁麼時、みだりなることいまだあらず。梅柳の花はかならず梅柳にさく。花をみて梅柳をしる、梅柳をみて花をわきまふ。桃李の花いまだ梅柳にさくことなし。梅柳の花は梅柳にさき、桃李の花は桃李にさくなり。空花の空にさくも、またまたかくのごとし。さらに余草にさかず、余樹にさかざるなり」とある。
文の通り心得るべきである。「桃李」「梅柳」など世間の花になぞらえてこれを釈される。このように、仏道の「空花の空にさく」道理を強調する時の潤色に引き出されるのである。世間の道理もやはりこのようである証拠である。
合掌
ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。

コメント
コメントを投稿