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正法を見聞することの少ない者は、空華の色彩や葉や華がどのようなものであるか知らない『第十四空華』14-3-1a

 〔『正法眼蔵』原文〕

しかあるを、少聞少見のともがら、空華の彩光葉華いかなるとしらず、

わづかに空華と聞取するのみなり。


しるべし、仏道に空華の談あり、

外道は空華の談をしらず、いはんや覚了せんや。


ただし、諸仏諸祖、ひとり空華クウゲ・地華チゲの開落をしり、

世界華セカイゲ等の開落をしれり。


空華・地華・世界花等の経典なるとしれり。


これ学仏の規矩なり。


仏祖の所乗は空華なるがゆゑに、仏世界および諸仏法、

すなはちこれ空華なり。



〔『正法眼蔵』私訳〕

そうであるのに、正法を見聞することの少ない者は、

空華の色彩や葉や華がどのようなものであるか知らず、

かろうじて空華と聞くだけである。

〔しかあるを、少聞少見のともがら、空華の彩光葉華いかなるとしらず、

わづかに空華と聞取するのみなり。〕


知るべきである、仏道には空華の談があるが、

外道は空華の談を知らず、

ましてその道理を覚ることはないのである。

〔しるべし、仏道に空華の談あり、外道は空華の談をしらず、

 いはんや覚了せんや。〕

〔仏道で言う空華空としての真実のありさま)とは、つまり自分のことである。そんなことを外道は知らない。〕


ただ、諸仏諸祖だけが空華・地華の開落(花が開き落ちること)を知り、

世界華等の開落を知っているのである。

〔ただし、諸仏諸祖、ひとり空華・地華の開落をしり、

世界華等の開落をしれり。〕

〔仏祖と言えば我々を余すものではない。

すると我々がじきに世界華の開落で、

我々の日常の行住坐臥がじきに空華である。〕


空華・地華・世界華等がみな経典であることを知った。

〔空華地華世界花等の経典なりとしれり。〕


これらの経典が仏道を学ぶ上での標準である。

〔これ学仏の規矩なり。〕


仏祖の乗る車は空華であるから、仏の世界および諸の仏法は、

すなわち空華なのである。

〔仏祖の所乗は空華なるがゆゑに、仏世界および諸仏法、

すなはちこれ空華なり。〕


正法を見聞することの少ない者は、空華の色彩や葉や華がどのようなものであるか知らない『第十四空華』14-3-1b

                      合掌



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