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包含万有(森羅万象の全体)とは海のことを言うのである『第十三海印三昧』13-12-2a

 〔『正法眼蔵』原文〕

師いはく「包含万有」は、海を道著するなり。


宗旨の道得するところは、阿誰オスイなる一物の万有を包含するといはず、

包含、万有なり。


大海の万有を包含するといふにあらず。


包含万有を道著するは、大海なるのみなり。


なにものとしれるにあらざれども、しばらく万有なり。


仏面祖面と相見することも、しばらく万有を錯認するなり。


包含のときは、たとひ山なりとも高々峰頭立カウカウホウトウリュウのみにあらず。


たとひ水なりとも深々海底行のみにあらず。


收はかくのごとくなるべし、放はかくのごとくなるべし。


仏性海といひ、毘盧蔵海ビルゾウカイといふ、ただこれ万有なり。


海面みえざれども、游泳の行履アンリに疑著する事なし。




〔『正法眼蔵』私訳〕

師の曹山が言う「包含万有(森羅万象の全体)」とは、

海のことを言うのである。

〔師いはく「包含万有」は、海を道著するなり。〕


宗旨の言うところは、何か一物が森羅万象(万有)を包含すると言わず、

包含することが森羅万象だというのである。

〔宗旨の道得するところは、阿誰なる一物の万有を包含するといはず、包含、万有なり。〕


大海が森羅万象を包含するというのではない。

〔大海の万有を包含するといふにあらず。〕


包含する森羅万象を言うのは、大海と言うよりほかにないのである。

〔包含万有を道著するは、大海なるのみなり。〕


何物か分からないけれども、しばらくこれを森羅万象というのである。

〔なにものとしれるにあらざれども、しばらく万有なり。〕


仏祖と相見することも、しばらく森羅万象を正しく仏祖だと合点することである。

〔仏面祖面と相見することも、しばらく万有を錯認するなり。〕


包含する時は、たとえ山であっても、高い山の頂きに立つだけではない。

〔包含のときは、たとひ山なりとも高々峰頭立のみにあらず。〕


たとえ水であっても、深い海底を行くだけではない。

〔たとひ水なりとも深々海底行のみにあらず。〕


すべてのものが一つのものに収まることはこのようなことであり、

一つのものがどこにでも現れることもこのようなことなのである。

〔收はかくのごとくなるべし、放はかくのごとくなるべし。〕


これを仏性の大海と言い、毘盧蔵海ビルゾウカイ(大日如来の法性海)と言う、

いずれも森羅万象のことを言うのである。

〔仏性海といひ、毘盧蔵海といふ、ただこれ万有なり。〕


仏性の大海の海面は見えないけれども、その海面を離れることのない喫茶喫飯・行住坐臥はみな包含万有(森羅万象の全体)の活動であり、疑う余地はないのである。

〔海面みえざれども、游泳の行履に疑著する事なし。〕




                         合掌


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