〔『聞書』私訳〕
/「包含万有」と言っても、そのものを含むと言わず、ただ「明来」は「明」、「暗来」は「暗」であるというように理解するのである。
「師いはく包含万有は、海を道著するなり。宗旨の道得するところは、阿誰なる一物の万有を包含するといはず、包含、万有なり。大海の万有を包含するといふにあらず。包含万有を道著するは、大海なるのみなり」とある。
「包含万有は、海を道著するなり」とは、明らかで、疑うまでもない。この「包含万有」の言葉を人が理解する様子は、「海」の徳であらゆるものを袋に入れているように、あらゆるものが「大海」の中にあるように思っているが、決してそういうことではない。これはただ、「海」の道理が「包含万有」と言われるのである。
「但以衆法、合成此身(ただ衆法を以て、此の身を合成す)」というように、この「包含万有」も理解すべきである。その理由は、この「海」の道理が、「不宿」とも「死屍」とも、「明頭来」とも「暗頭来」と言われる所を、「包含万有」と言うのである。
ただ、これは「大海」の徳で、諸々のものを入れていると理解するのとは違う。今言う所(宗意)は、「阿誰なる一物の万有を包含するといはず」、ただ「包含、万有なり」と言うのである。「大海の万有を包含する」とは言わないから、「包含万有を道著するは、大海なるのみなり」と言うのである。
/「たとひ山なりとも高々峰頭立のみにあらず」と言うのは、
「万有」を「包含」している意である。「山」である時は「山」が「万有」を「包含」し、「水」である時はまた、「水」が「万有」を「包含」するという意である。「不宿死屍」とも「包含」とも「絶気者不著」とも理解するのである。
/「毘盧蔵海」とは法身である。「仏性海」と「毘盧蔵海」は、ただ同じことである。「仏性」を説いた時は、内外中間でないと言い、悉有は「仏性」であると言った。その道理と同じである。今の「海」もまたこの通りである。だから、「内海」「外海」「八海」等ではないと言うのである。
/「ただこれ万有なり」と言う、
「包含」が「万有」であるから、ここでは、今は「包含」は用いないのである。
〔『抄』私訳〕
「なにものとしれるにあらざれども、しばらく万有なり。仏面祖面と相見することも、しばらく万有を錯認するなり。包含のときは、たとひ山なりとも高々峰頭立のみにあらず。たとひ水なりとも深々海底行のみにあらず。收はかくのごとくなるべし、放はかくのごとくなるべし」とある。
「仏面祖面と相見することも、しばらく万有を錯認するなり」とは、「仏面祖面」というのも「万有」の意である。「錯認」という言葉も、悪い言葉でなく、「万有」「仏面祖面」等を「錯認」とも使うのである。「包含」と言う時は、「たとひ山なりとも、高々峰頭立のみにあらず。たとひ水なりとも、深々海底行のみにあらず」であり、「收」「放」の道理もこのようであると言うのである。
「仏性海といひ、毘盧蔵海といふ、ただこれ万有なり。海面みえざれども、游泳の行履に疑著する事なし」とある。
上の「海」の道理をもって、「仏性海」「毘盧蔵海」と言うのであり、これが「万有」の道理である。まさに、今「海面みえざれども、游泳の行履」はまさに疑うべきではないと言うのである。
合掌
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