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仏性の大海はすべてのものが合わさって成っているものである『第十三海印三昧』13-11-2a

〔『正法眼蔵』原文〕

  この曹山は、雲居ウンゴの兄弟ヒンデイなり。


洞山の宗旨シュウシ、このところに正的ショウテキなり。


いま「承教有言ショウキョウウゴン」といふは、仏祖の正教ショウキョウなり。


凡聖ボンショウの教にあらず、附仏法の小教にあらず。


 「大海不宿死屍ダイカイフシュクシシ」。


いはゆる大海は、内海・外海ゲカイ等にあらず、八海等にはあらざるべし。


これらは学人のうたがふところにあらず。


海にあらざるを海と認ずるのみにあらず、海なるを海と認ずるなり。


たとひ海と強為ゴウイすとも、大海といふべからざるなり。


大海はかならずしも八功徳水の重淵チョウエンにあらず、大海はかならずしも鹹水カンスイ等の九淵キュウエンにあらず。


衆法は合成ゴウジョウなるべし。


大海かならずしも深水ジンスイのみにてあらんや。


このゆゑに、「いかなるか海」と問著モンヂャクするは、大海のいまだ人天ニンデンにしられざるゆゑに、大海を道著ドウヂャクするなり。


これを問著せん人は、海執を動著せんとするなり。




〔『正法眼蔵』私訳〕

この曹山は、雲居ウンゴの兄弟弟子である。

師の洞山トウザンの宗旨は、この海印三昧の公案に正しく現れている。

〔この曹山は、雲居の兄弟なり。洞山の宗旨、このところに正的なり。〕


今「承るに教に言へる事有り」というのは、

仏祖の正しい教えのことである。

〔いま「承教有言」といふは、仏祖の正教なり。〕


凡夫や聖人の教えではなく、

仏法に似せている外道の教えではない。 

〔凡聖の教にあらず、附仏法の小教にあらず。〕


「大海は死屍を宿めず」とこの僧が言った大海とは、

須弥山シュミセン(宇宙の中心にある山)の内海や外海のことではなく、

また八つの海のことではない。

〔「大海不宿死屍」。いはゆる大海は、内海・外海等にあらず、八海等にはあらざるべし。〕


これらの海のことを疑ってこの僧が尋ねているのではない。

〔これらは学人のうたがふところにあらず。〕


この僧は、仏性の大海でないもの(内海・外海、八海)を仏性の大海と認めるだけでなく、仏性の大海を大海と認めるのである。

〔海にあらざるを海と認ずるのみにあらず、海なるを海と認ずるなり。〕


かりに内海・外海・八海等を海だと無理に言ってみても、

仏性の大海と言うことはできないのである。

〔たとひ海と強為すとも、大海といふべからざるなり。〕


仏性の大海は必ずしも八つの功徳が具わっている水の深い淵のことではなく、仏性の大海は必ずしも塩水の九重の深い淵のことではないのである。

〔大海はかならずしも八功徳水の重淵にあらず、大海はかならずしも鹹水等の九淵にあらず。〕


仏性の大海はすべてのものが合わさって成っているものである。

〔衆法は合成なるべし。〕


この仏性の大海は必ずしも内海・外海・八海等の深い水だけではないのである。

〔大海かならずしも深水のみにてあらんや。〕


そのため、この僧が「如何なるか是れ海」と尋ねるのは、仏性の大海がまだ人間界の衆生にも天上界の衆生にも知られていないから、それを知らせるために「如何なるか是れ海」と言うのである。

〔このゆゑに、「いかなるか是れ海」と問著するは、大海のいまだ人天にしられざるゆゑに、大海を道著するなり。〕


仏性の大海を尋ねた僧は、海に対する執着した考えを動揺させ間違いに気づかせようとするのである。

〔これを問著せん人は、海執を動著せんとするなり。〕


仏性の大海はすべてのものが合わさって成っているものである『第十三海印三昧』13-11-2b

                         合掌


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