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真実に帰るとは一切が真実のすがたであるということである『第十三海印三昧』13-10-2a

 〔『正法眼蔵』原文〕

いはゆるの前面後面は我於海面なり。


前頭後頭といはんがごとし。


前頭後頭といふは頭上安頭ズジョウアンズなり。


海中は有人ユウジンにあらず、我於海は世人の住処にあらず、

聖人ショウニンの愛処にあらず。


「我於」ひとり海中にあり。


これ「唯常」の「宣説」なり。


この海中は中間チュウゲンに属せず、内外ナイゲに属せず、

鎮常在説チンジョウザイセツ法華経なり。


東西南北に不居フコなりといへども、満船空載月明帰マンセンクウカイゲツメイキ

《満船空しく月明を載せて帰る》なり。


この実帰は便帰来ベンキライなり。



〔『正法眼蔵』私訳〕

今言う前面や後面はみな海印三昧の面のことであり、

海印三昧の前後というようなことである。

〔いはゆるの前面後面は我於海面なり。前頭後頭といはんがごとし。〕


海印三昧の前後とは頭の上に頭を置く、つまりただ仏と仏のみということである

〔前頭後頭といふは頭上安頭なり。〕


海印三昧には人はおらず、我れ(文殊)がいる海印三昧は世間の人が住む処ではなく、聖者が愛する処でもない。

〔海中は有人にあらず、我於海は世人の住処にあらず、聖人の愛処にあらず。〕


「我れ(文殊)」独り海印三昧にいるのである。

〔「我於」ひとり海中にあり。〕


これが、「ただ常に」『法華経』を「宣べ説く」ということである。

〔これ「唯常」の「宣説」なり。〕


海印三昧中の中は、中間に属さず、内外にも属さず、

永く常にいて『法華経』を説いているのである。

〔この海中は中間に属せず、内外に属せず、鎮常在説法華経なり。〕


海印三昧中の中は、東西南北のいずれにもいないけれども、

全世界である船が空カラであるからただ月明かりを満載して帰るだけなのである。

〔東西南北に不居なりといへども、

満船空載月明帰《満船空しく月明を載せて帰る》なり。〕


真実に帰るとはいわゆる実相に帰る、

つまり一切が真実のすがたであるということである。

〔この実帰は便帰来なり。〕



                         合掌


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