〔『聞書』私訳〕
/「満船空載月明帰マンセンクウカイゲツメイキ」とは、この「満船空」は「我於海中」である。「載月明帰」は「唯常宣説妙法華経」である。「我」と「海」と「説法」は、たとえば「空」と「船」と「月」である。
「我於海中、唯常宣説」である「満船空」は「我於海中」であり、「空載の船」と言えよう。この「帰」の字は「実帰」であると言う。「東西」に「帰る」のではなく、際限なく「帰る」のである。
/「満船空載月明帰なり。この実帰は便帰来なり」とは、「実帰」の「帰」は実相(真実のすがた)である。「実帰来」という「来」は、去来の来ではなく、ただ「実帰」なのである。
〔『抄』私訳〕
「いはゆるの前面後面は我於海面なり。前頭後頭といはんがごとし。
前頭後頭といふは頭上安頭なり」とある。
海を「前面後面」と言うのである。「頭上安頭」とは、
「唯仏与仏(ただ仏と仏のみ)」という言葉がそれである。
「海中は有人にあらず、我於海は世人の住処にあらず、聖人の愛処にあらず。我於ひとり海中にあり。これ唯常の宣説なり」とある。
この「海印三昧」の海は、まさに「世人の住処」でもなく「聖人の愛処」でもない。「我於ひとり海中にあり。これ唯常の宣説なり」とある文で明らかである。
「この海中は中間チュウゲンに属せず、内外に属せず、鎮常在説法華経なり」とある。
「海中」という「中」を解釈される。〔その「中」の意味は、〕「中間」にも「属せず」、「内外」にも「属せず」、「とこしなへに在説法華経」とあり、「法華」を「中」と取るのである。
「東西南北に不居なりといへども、満船空載月明帰《満船空しく月明を載せて帰る》なり。この実帰は便帰来ベンキライなり」とある。
「空」とは、一般に人が理解するように空ウツけ空けとして虚しい所を「空」といつも思っているが、これは「満船」を「空」と言うのである。また「満船」の「空」を「月明帰」とも言うのである。
また、「月明帰」を「満船」の「空」とも理解すべきである。この道理を「実帰」とも言い、「実帰は便帰来なり」とも言うのである。
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