〔『正法眼蔵』原文〕
三昧は現成なり、道得なり。
背手摸枕子ハイシュモチンスの夜間なり。
夜間のかくのごとく背手摸枕子なる、摸枕子は億々万劫のみにあらず、
我於海中ガオカイチュウ、唯常宣説ユイジョウセンゼツ妙法華経なり。
「不言我起」なるがゆゑに「我於海中」なり。
前面も一波纔動万波随イッパサイドウバンパズイなる「常宣説」なり、
後面コウメンも万波纔動一波随の妙法華経なり。
たとひ千尺万尺の糸綸シリンを卷舒ケンジョせしむとも、
うらむらくはこれ直下垂チョッカスイなることを。
〔『正法眼蔵』私訳〕
海印三昧は我々の見聞覚知に活き活きと現れており、
仏法の道理を説き尽くしているのである。
〔三昧は現成なり、道得なり。〕
この三昧の現成は、たとえば、夜間に手を背にして枕を摸り求めることである。
〔背手摸枕子の夜間なり。〕
〔夜間の背手だから、手に当たるものも能所もなく、
みな三昧の現成である。〕
夜間にこのように手を背にして枕を摸り求めるのは、
限りなく長い時間であるだけでなく、我れ(文殊)は海印三昧にあり、
ただ常に妙法華経(釈尊の正しい教え)を宣べ説くのである。
〔夜間のかくのごとく背手摸枕子なる、摸枕子は億々万劫のみにあらず、
我於海中、唯常宣説妙法華経なり。〕
「我れ起こると言わず」であるから「我れ海印三昧にあり」なのである。
〔「不言我起」なるがゆゑに「我於海中」なり。〕
〔我れは海印三昧の我れであるから、
その海印三昧の我れと不言の我れは同じである。〕
海印三昧の中で前面も後面も僅かに動く、
一波も万波も、みな常に妙法華経を宣べ説くのである。
〔前面も一波纔動万波随なる「常宣説」なり、後面も万波纔動一波随の妙法華経なり。〕
たとえ千尺万尺の釣り糸を巻いたり伸ばしたりしても、恨めしいことに糸は真っ直ぐに垂れている〔けれども魚がさっぱり寄り付かない〕のである。
〔たとひ千尺万尺の糸綸を卷舒せしむとも、うらむらくはこれ直下垂なることを。〕
〔天地に並ぶものなき無辺際の糸には、魚も人も寄り付かない、
つまり海印三昧の世界は誰も窺うことは出来ないのである。〕
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