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海印三昧は我々の見聞覚知に活き活きと現れている 『第十三海印三昧』13-10-1a

 〔『正法眼蔵』原文〕

 三昧は現成なり、道得なり。


背手摸枕子ハイシュモチンスの夜間なり。


夜間のかくのごとく背手摸枕子なる、摸枕子は億々万劫のみにあらず、

我於海中ガオカイチュウ、唯常宣説ユイジョウセンゼツ妙法華経なり。


「不言我起」なるがゆゑに「我於海中」なり。


前面も一波纔動万波随イッパサイドウバンパズイなる「常宣説」なり、

後面コウメンも万波纔動一波随の妙法華経なり。


たとひ千尺万尺の糸綸シリンを卷舒ケンジョせしむとも、

うらむらくはこれ直下垂チョッカスイなることを。



〔『正法眼蔵』私訳〕

 海印三昧は我々の見聞覚知に活き活きと現れており、

仏法の道理を説き尽くしているのである。 

〔三昧は現成なり、道得なり。〕


 この三昧の現成は、たとえば、夜間に手を背にして枕を摸り求めることである。

〔背手摸枕子の夜間なり。〕

〔夜間の背手だから、手に当たるものも能所もなく、

みな三昧の現成である。〕


夜間にこのように手を背にして枕を摸り求めるのは、

限りなく長い時間であるだけでなく、我れ(文殊)は海印三昧にあり、

ただ常に妙法華経(釈尊の正しい教え)宣べ説くのである。

〔夜間のかくのごとく背手摸枕子なる、摸枕子は億々万劫のみにあらず、

我於海中、唯常宣説妙法華経なり。〕


「我れ起こると言わず」であるから「我れ海印三昧にあり」なのである。

〔「不言我起」なるがゆゑに「我於海中」なり。〕

〔我れは海印三昧の我れであるから、

その海印三昧の我れと不言の我れは同じである。〕


海印三昧の中で前面も後面も僅かに動く、

一波も万波も、みな常に妙法華経を宣べ説くのである。

〔前面も一波纔動万波随なる「常宣説」なり、後面も万波纔動一波随の妙法華経なり。〕


たとえ千尺万尺の釣り糸を巻いたり伸ばしたりしても、恨めしいことに糸は真っ直ぐに垂れている〔けれども魚がさっぱり寄り付かない〕のである。

〔たとひ千尺万尺の糸綸を卷舒せしむとも、うらむらくはこれ直下垂なることを。〕

〔天地に並ぶものなき無辺際の糸には、魚も人も寄り付かない、

つまり海印三昧の世界は誰も窺うことは出来ないのである。〕




                   合掌


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