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海印三昧は我々の見聞覚知に活き活きと現れている 『第十三海印三昧』13-10-1b

 〔『聞書』私訳〕

/「背手摸枕子の夜間なり。夜間のかくのごとく背手摸枕子なる、摸枕子は億億万劫のみにあらず」とは、《割注:「背手摸枕子」をそのまま「夜間」と取る、回頭換面の意味である。》「夜間」といっても明らかに物を見たのではない。

「背手」といっても、手を後ろにした正しい意味合いではない。


「摸る」というのも取り得たのではない。「億々万劫」だけではないとあり、得る所があるとは思われない。取る所もあり明らかである所もあると言えば、やはり「起」「滅」が相対する意味合いもあることになり、染汚である。明らかな眼には一塵も見えないというほどの意味合いである。明眼を「背手摸枕子」と理解すべきである。この「背手摸枕子」は、「通身是手眼」というほどのことである。


/「我於海中、唯常宣説妙法華経」と言う、

この意味合いは、「我於海中」でどのような法(真理)を説くかと言うのである。また、「唯常宣説妙法華経」はどのような所で説くのかと言うのである。「我於海中」の言葉は、「説法華経」と理解され、「説法華経」の所に「海中」が現れるから「不言我起」である。


「法華」の所とは、「法華」を理解する所を言うのである。また、この「我」は仏と理解される。「海中」は龍宮のような所に道場を設け、「宣説妙法華経」は説法と、このように理解されるけれども、現身説法であり、身といっても法と差別すべきでない。また、「我於海中」は「十方仏土中唯有一乗法」なのである。



〔『抄』私訳〕

「是即の修証はなきにあらず、只此不染汚、名為海印三昧なり。三昧は現成なり、道得なり。背手摸枕子ハイシュモチンスの夜間なり。夜間のかくのごとく背手摸枕子なる、摸枕子は億々万劫のみにあらず、我於海中、唯常宣説妙法華経なり」とある。


「是即」の言葉はただ総論的な言葉のように受け取れるが、今は「是即」の言葉を一つの公案として出され、この「修証」は「不染汚、名為海印三昧なり」というのである。


手眼とは、千手千眼を言った時は、眼はあっても眼が究尽する時は夜間に物も見ず、千手があっても「背手摸枕子」で手に当たる物はないのである。これは即ち、眼も手も完全に解脱する時の道理はこのようであり、今の「起滅」「衆法」「合成此身」等以下の意味合いは、「背手摸枕子」の道理であるというのである。この「摸枕子」の道理は、「億々万劫のみにあらず」という意である。


「我於海中」の我れは文殊か。「海中」とは娑竭羅竜王シャカラリュウオウ(仏教を守護する竜王)の宮で「宣説此妙法華経」し給うと言う。それなら、説く文殊、説かれる法華、或いは「海中」といろいろあることになる。


「海中」とは今の文殊を言い、今の文殊を「海中」と言い、「海中」をもって「宣説妙法華経」と取る。文殊と「海中」と「妙法華経」はただ同じものである。このように言う時、能所彼此(二元相対)はないのである。



                   合掌


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