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森羅万象が集まってこの身が成っている 『第十三海印三昧』13-2a

 〔『正法眼蔵』原文〕

 仏言、「但以衆法タンニシュホウ、合成此身ゴウジョウシシン


起時唯法起キジユイホウキ、滅時唯法滅メツジユイホウキ


此法起時シホウキジ、不言我起フゴンガキ。此法滅時、不言我滅」。


前念後念、念々不相待ソウタイ


前法後法、法々不相対。


是即名為海印三昧。


《仏言はく、「但衆法を以て此身を合成す。


起時は唯法の起なり、滅時は唯法の滅なり。


此の法起る時、我起ると言はず。


此の法滅する時、我滅すと言はず」。


前念後念、念々不相待なり。前法後法、法々不相対なり。


是れを即ち名づけて海印三昧とす。》


 この仏道、くはしく参学功夫すべし。


得道入証はかならずしも多聞タモンによらず、多語によらざるなり。


多聞の広学はさらに四句に得道し、

恒沙ゴウシャの遍学、つひに一句偈に証入するなり。



〔『正法眼蔵』私訳〕

 仏は言う、「ただ森羅万象シンラバンショウが集まってこの身が成っている。

 (仏言、「但以衆法、合成此身《仏言はく、「但衆法を以て此身を合成す》。)


この身が起こる時は、ただいろいろなものが起こり、この身が滅する時は、ただいろいろなものが滅するのである。

(起時唯法起、滅時唯法滅《起時は唯法の起なり、滅時は唯法の滅なり》。)


この身が起こる時は、森羅万象が集まるだけで、我れが起こるとは言わない。

(此法起時、不言我起《此の法起る時、我起ると言はず。》。)


この身が滅する時は、集まった森羅万象が散ずるだけで、

我れが滅するとは言わないのである」。

(此法滅時、不言我滅《此の法滅する時、我滅すと言はず》」)。)


前の念が滅し後の念が起こる、

前の念が後の念を相い待つことはない。

(前念後念、念々不相待《前念後念、念々不相待なり》。


前の法(もの)が滅し後の法が起こる、

前の法と後の法が相い対することはない。

(前法後法、法々不相対《前法後法、法々不相対なり》。)


これを名付けて海印三昧と言うのである。

(是即名為海印三昧《是れを即ち名づけて海印三昧とす》。)


 「ただ森羅万象が集まってこの身が成っている」という仏の言葉、詳細に参禅修行しなければいけない。

(この仏道、くはしく参学功夫すべし。)


道を得て悟りに入るのは必ずしも多く聞くことによるわけではなく、

たくさんの言葉によるわけではないのである。

(得道入証はかならずしも多聞によらず、多語によらざるなり。)


多く聞き広く学べば改めて四句の詩偈ゲによって道を得、

多くの師家に学べば最後に一句の詩偈によって悟りに入るのである。

(多聞の広学はさらに四句に得道し、恒沙の遍学、つひに一句偈に証入するなり。)




                           合掌

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