〔『聞書』私訳〕
/「仏言、但以衆法、合成此身。起時唯法起、滅時唯法滅」と言う、「衆法合成」は「此身」であり、「此身」は「起」「滅」である。この「起」「滅」が前の「衆法」の法である。「但衆法を以合成」することによって「此の法起る時」と説き、「但衆法を以て合成」することによって「我起こると言はず」と取る。例えば、諸法実相と言い諸法不妄と言うほどの言葉の違いである。
/この「衆法」は、万法・諸法・百草などというのと同じ意味である。「合成此身」というのは、「合成此法」とも言える。「身」とは、尽十方界真実人体の「身」である。従って、この「合成」には際限がないのである。およそ「衆法」の「合成」しない時はないのである。
「合成此身」というのを吾我の身と思ってはならない。〔それは先に言った尽十方界真実人体の身であるから、法身と言うべきものであり、〕「合成法身」とも言うべきものである。
/地水火風の四大以下の諸法を取り合わせて「身」と言うのではない。「衆法」の衆は〔、多く集まる意味ではなく、〕ただ一と心得るべきである。〔「但以衆法、合成此身」を、〕「但以衆法、合成拳頭」とも、「但以衆法、合成鼻孔」とも、「合成柱杖」「合成払子」とも言うようなことである。
この間の一切の言葉を、今の「此身」の「身」に取り替えて心得るのである。衆と一は、一多相即(一は多であり多は一である)という意味である。
/「合成衆法」と言うときは、「起」「滅」の言葉もないのである。何を「起」とも「滅」とも言えようか。
/「起時唯法起、滅時唯法滅。此法起時、不言我起。此法滅時、不言我滅《起時は唯法の起なり、滅時は唯法の滅なり。此の法起る時、我起ると言はず。此の法滅する時、我滅すと言はず》と言う、
「法」の外に「我」ということはないから、「不言」である。ただ、「言わず」というのも、「言う」に対して言うから、やはり言わないのではないと言う。「此法起時、不言我起」というこの「法」より外に「我」はないから、「不言我起」である。
「此法滅時、不言我滅」の意味は、上の「起」と同じである。三界一心であれば一心を言わないようなことである。「不言」と言うからといって、嫌う意味合いで「不言」と言うのではない。「起」「滅」は「ただ法」(唯法)であるから、必ず「不言我起」とも「不言我滅」とも言われるのである。「ただ法」(唯法)の上は、すべて「我」ということはないから「不言」の言葉が出て来るのである。
ある人(『聞書』の選者詮慧)が疑って言う、「教家(天台宗)では、会不会・覚不覚・悟不悟などという言葉を用いる時は、必ず会は悟り、これは仏の位、不会は迷い、これは凡夫の位、と定る。仏法の上では(宗意においては)会も不会も共に使うのである。もしそのようであれば、今「不言我起」と言うのに対し、また「言我起」とも言うことができるのではないか。
答えて言う、「本当に、不の字を置くか置かないかということは、仏家が心得ておくべきことであるから、「言我起」とも言えようが、ここではとりわけ「不言我起」と言い、「言我起」とだけ言おうという様子はない。その理由は、この「不言」の言葉は「我」について言い出す言葉であるからである。
「唯法」と言うからには、「我」ということは、跡を取り除いて近づけることはない。そうであるから、「不言」も「言」もないから、今さら「不言」と「言」とを引き分けて「言我起」と言うようなこともない《割注:不言があってはならないから、まして言我起があろうはずがない》。
そもそも、この「法」と「起」「滅」を取りふしたからには、「我」も「法」の上に置いて、法我とどうして言わないのかという道理もあるであろう。「法」の「我」は大我である。或いは「法身周辺法界」と説き、或いは「尽十方界真実人体の我」である。
小我は外道の考えであり、それは常楽我浄の四顛倒の「我」に外ならない。起は生であり、滅は死であると思われるが、そうではないのである。
/この「起」「滅」は我々の生死ではない。我々の身について言う邪見である。世間で言う起滅は、ただ一時の見方である。ものを一つ置いて「我」に付けて起滅を理解しているのである。今の(ここで言う宗意の)起滅は「法の起滅」であるから際限がないのである。
/「此法起時、不言我起。此法滅時、不言我滅」(此の法起る時、我起ると言はず。此の法滅する時、我滅すと言はず)とは、「起時」も「滅時」も「唯法」であるから「我」と言えないのである。
/「前念後念、念々不相待。前法後法、法々不相対」とは、この「前」「後」の字は不用であり、「念」の字だけを取るから「念」と言うのである。「法々不相対」もまた同じである。
/『仏性』の巻《割注:嶺南人の段》のとき、「仏性は成仏よりさきに具足せるにあらず、成仏より後に具足するなり。仏性必ず成仏と同参するなり」と言う。この道理に通じた時は、「成仏よりさきに具足」する理由も理解するであろう。
今の「前」「後」もこれほどのことである。そうであるが、「前」「後」の言葉が出てくるから、相待(二つのものが互いに相対関連して存在すること)相対(それ単独にでなく、他と関係づけて捉えること)する意味合いであるのを、もう一度「念々」とか「法々」とか言う時は、相待相対することはない〔、ただ念のみ法のみがある〕のである。
例え対するといっても、「大乗因は諸法実相なり、大乗果もまた諸法実相なり」という因果ほどのことである。
/「得道入証はかならずしも多聞によらず」と言う、
一師の下で遍参するということと合わせて心得るべきである。「四句に得道し、恆沙の遍学、つひに一句偈に証入するなり」と言う、
例えば、周梨槃特シュリハンドクが「守口摂意身莫犯シュクショウイシンマクボン、如是行者得度世ニョゼギョウジャトクドセ」(口を守って妄語せず、意を摂じて妄念なく、身に咎とがを犯すことなかれ、かくの如く行ずる者は生死をはなるべし)と言うようなことであり、この一句で了達したのである《割注:或いは三年或いはひと夏の間。この文を覚えると云々》。
千経万論を多聞広学しても必ずしも得道できるわけではなく、四句だけでも足り、一句だけでも悟ることができるのである。
また、一巻の『金剛般若経』を聞き学ぶのを多聞広学と立て、ただ「若以色見、我以音声求我」(若し色を以て我を見、若し音声を以て我を求めば、是人行邪道、不能見如来)等の四句だけを聞き学べば、少聞狭学とも言うであろう。
但し、結局四句であれ一偈であれ、「得道」「証入」すれば多聞広学であり、少聞と言うことはできないだろう。
/「恒沙の遍学、つひに一句偈に証入するなり、いはんやいまの道は」と言う、この言葉は「但以衆法、合成此身」のことである。
ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。
コメント
コメントを投稿