〔『正法眼蔵』原文〕
「空闊莫涯兮クウカツマクガイケイ、鳥飛杳々チョウヒヨウヨウ」。
「空闊」といふは、天にかゝれるにあらず。
天にかゝれる空クウは闊空カックウにあらず。
いはんや彼此に普遍なるは闊空にあらず。
穏顯に表裏なき、これを闊空といふ。
「とり」もしこの空ソラをとぶは飛空の一法なり。
飛空の行履アンリ、はかるべきにあらず。
飛空は尽界なり、尽界飛空なるがゆゑに。
この飛、いくそばくといふことしらずといへども、
卜度ボクタクのほかの道取を道取するに、「杳々」と道取するなり。
直須足下無絲去ジキシュソッカムシコなり。
空の飛去ヒコするとき、鳥も飛去するなり。
鳥の飛去するに、空も飛去するなり。
飛去を参究する道取にいはく、只在這裏シザイシャリなり。
これ兀々地の箴なり。いく万程か只在這裏をきほひいふ。
〔『正法眼蔵』私訳〕
「空は広く限りなく、鳥の飛ぶの遥か彼方まで飛んで行く」
と宏智禅師は言う。
(空闊莫涯兮、鳥飛杳杳《空ひろうして涯りなく、鳥の飛ぶこと杳々たり》)
「空広し」とは、天にかかっているものではない。
(空闊といふは、天にかかれるにあらず。)
天にかかっている空は広い空ではない。
(天にかかれる空は闊空にあらず。)
まして比べるものが広く行き渡っているのは、広い空ではない。
(いはんや彼此に普遍なるは闊空にあらず。)
隠れたり現れたりする中に表も裏もない、
これを広い空と言うのである。
(穏顯に表裏なき、これを闊空といふ。)
鳥がもしこの空を飛ぶならば、正に空を飛ぶものと言える。
(とりもしこの空をとぶは飛空の一法なり。)
鳥が空を飛ぶありようは、測ることはできないの。
(飛空の行履、はかるべきにあらず。)
空を飛ぶことは全世界を尽くすことである、
全世界を尽くして空を飛ぶからである。
(飛空は尽界なり、尽界飛空なるがゆゑに。)
こうやってどれほど長く飛んでいるか分からないが、憶測による判断を越えた言葉で言うと、「遥か彼方まで」と言うのである。
(この飛、いくそばくといふことしらずといへども、
卜度のほかの道取を道取するに、杳杳と道取するなり。)
その様子は、足の下に糸一筋もないように、飛んだ跡が残っていないのである。
(直須足下無絲去なり。)
空が飛び去る時、鳥も飛び去るのである。
(空の飛去するとき、鳥も飛去するなり。)
鳥が飛び去る時、空も飛び去るのである。
(鳥の飛去するに、空も飛去するなり。)
飛び去ることがどういうことかと言えば、
「ただこの今の様子に在る」ということである。
(飛去を参究する道取にいはく、只在這裏なり。)
これが坐禅の急所である。
(これ兀々地の箴なり。)
何万回も「ただこの今の様子に在る」を繰り返し言うのである。
(いく万程か只在這裏をきほひいふ。)
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