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「ただこの今の様子に在る」を繰り返し言う 『第十二坐禅箴』12-10-9b

 〔『聞書』私訳〕

/「空闊莫涯兮クウカツマクガイケイ、鳥飛杳々チョウヒヨウヨウ《空ひろうして涯キハなし、鳥の飛ぶこと杳々》」とある。

「空」と「鳥」は坐禅と坐仏ほどのものである。飛ぶ鳥は飛ぶ空である。


/「足下無絲去」とは、足の下に踏む所がないことを言うのである。

だから、「不触事而知」「不対縁而照」と言うのである。


/「只在這裏をきほひいふ」とは、どのように言っても「只在這裏」の道理に背くはずはないから、「きほひいふ」と言うのである。「不触事」も「只在這裏」《這裏は坐禅裏である》、「不対縁」も「只在這裏」である。




〔『抄』私訳〕

「空闊といふは、天にかゝれるにあらず。天にかゝれる空クウは闊空カックウにあらず。いはんや彼此に普遍なるは闊空にあらず。穏顯に表裏なき、これを闊空といふ」とある。


文の通りである。これも凡夫が考える「空闊」の見方を嫌う意味合いである。この『坐禅箴』の「空闊」とは、「穏顯に表裏なき、これを闊空といふ」とあり、その理ははっきりしている。


「とりもしこの空ソラをとぶは飛空の一法なり。飛空の行履アンリ、はかるべきにあらず。飛空は尽界なり、尽界飛空なるがゆゑに。この飛、いくそばくといふことしらずといへども、卜度ボクタクのほかの道取を道取するに、杳々と道取するなり」とある。


「鳥」と「空」の関係は、前の「魚」と「水」のように心得るべきである。「とり」が「空をとぶは飛空の一法なり」。この「飛空の行履、はかるべきにあらず。飛空は尽界なり、尽界飛空なるがゆゑに。この飛、いくそばくといふこと」を「しらずといへども、卜度のほかの道取を道取するに、杳々と道取する」とは、ただ普通に遠いとも遥かであるなどと言えば、普通の「卜度憶測による判断」に似ている。この我々の思慮分別の「卜度のほかの道取」で「道取するに、杳々と道取するなり」とは、ただ一般に辺際がないなどという道理を超越した「杳々(遠くかすか)」であるから、このように言うのである。


「直須足下無絲去なり」とある。

これは解脱の言葉として使うのである。


「空の飛去するとき、鳥も飛去するなり。

鳥の飛去するに、空も飛去するなり」とある。


この言葉で、「飛去」の道理も「空」と「鳥」の道理もよく心得るべきである。「空の飛去する」とは、この「飛去」を「空」と言う。「鳥の飛去」とは、、この「飛去」を「鳥」と言う。この道理で、「鳥の飛去するに、空も飛去するなり」と言うのである。


「飛去を参究する道取にいはく、只在這裏なり。これ兀々地の箴なり。

いく万程か只在這裏をきほひいふ」とある。


「飛去」とは、ここからあそこへ飛び、あそこからここへ去るのを言う。

この「飛去」の道理は、「只在這裏」であり、

「只在這裏」とは「ただこの内にある」ということである。


「飛去」と言っても、尽界である。「飛去」と言ってもただ「只在這裏」の道理である。「只在這裏」と言うからといって、またただ我々が思うような此の裏などとは心得ず、尽十方界が「只在這裏」である。


だから、「いく万程か只在這裏をきほひいふ」とある。

文の通り心得るべきである。




                            合掌

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