〔『正法眼蔵』原文〕
「水清徹底兮スイセイテッテイケイ、魚行遅々ギョコウチゝ」
「 水清」といふは、空クウにかゝれる水ミズは清水セイスイに不徹底なり。
いはんや器界に泓澄ワイタイする、水清の水にあらず。
辺際に涯岸なき、これを「徹底」の清水とす。
「うを」もしこの水をゆくは「行」なきにあらず。
行はいく万程バンテイとなくすゝむといへども不測フシキなり、不窮フキュウなり。
はかる岸なし、うかむ空ソラなし、しづむそこなきがゆゑに測度シキタクするたれなし。
測度を論ぜんとすれば「徹底」の「清水」のみなり。
坐禅の功徳、かの魚行のごとし。
千程万程センテイバンテイ、たれか卜度ボクタクせん。
徹底の行程は、挙体コタイの不行鳥道フギョウチョウドウなり。
〔『正法眼蔵』私訳〕
「水清く底に徹し、魚行って遅し」と宏智禅師は言う。
(水清徹底兮、魚行遅遅。 《水清んで底に徹り、魚の行くこと遅遅オソシ》」
「水清し」とは、空にかかっている水は清水として底に徹してはいない。
( 水清といふは、空にかかれる水は清水に不徹底なり。)
まして器の世界の中に深く澄んでいる水は、
水清しという水ではない。
(いはんや器界に泓澄する、水清の水にあらず。)
どこまでも際限がないのを、底に徹した清水と言うのである。
(辺際に涯岸なき、これを徹底の清水とす。)
魚がもしこの水の中を行けば、行くことがないわけではない。
(うをもしこの水をゆくは行なきにあらず。)
行くことが幾万里となく進んでも測りきれず、
これ以上行くところがないということはないのである。
(行はいく万程となくすすむといへども不測なり、不窮なり。)
測る岸もなく、浮かぶ空もなく、沈む底もないから、
測る誰もいない。
(はかる岸なし、うかむ空なし、しづむそこなきがゆゑに測度するたれなし。)
測ることを言おうとすれば、底に徹している清水ばかりである。
(測度を論ぜんとすれば徹底の清水のみなり。)
〔本当にどうなっているかということを言おうとすれば、
自分が今ここで本当に生きているという活動している様子があるばかりで、それ以外何もないのである。〕
坐禅の功徳は、かの魚が行くようなことである。
(坐禅の功徳、かの魚行のごとし。)
その道のりが千里万里であることを、誰が測ることができようか。
(千程万程、たれか卜度せん。)
底に徹している道のりは、全体が飛んだ跡が残らない鳥の道のようなものである。
(徹底の行程は、挙体の不行鳥道なり。)
水清く底に徹し、魚行って遅し 『第十二坐禅箴』12-10-8b
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