〔『聞書』私訳〕
/「水清徹底(水清うして底にとおる)」とは、底がなく岸がないことを言うのである。物に対して論ずるのではないから、「坐禅」である。「徹底の行程」は「挙体」であるから、魚の行くことは遅いのである。魚の行くことが遅いという意味合いは、坐禅人が喪身失命するという意味である。魚の行くことが急であるとも言えよう。
/「徹底の行程は、挙体の不行鳥道なり」《割注:「挙体の不行」と言う時に、今は「行」はないのである》とは、つまるところ、「徹底」の「清水」はそのまま「徹底」の「清水」のまま行くのである。
「不触事」「不対縁」を「清水」の「徹底」というのである。
知・照を鳥・魚と言おうとするのであるから、魚の行くことが遅いとも、また「不行鳥道」とも言うのである。
「挙体」は全体という意味である。「挙」はこぞってという意味であり、残さないのである。例えば、世がこぞってなどという意味合いである。「不行」は余りに広く際がなくなるから、「行」とも言いがたいのを「不行」と言うのである。
/「水清ければ魚なし」という俗の言葉がある。「清水」を談ずる時、珠を入れれば水が澄む、象が入れば水が濁るなどということがある。これらは世間のことであり、底に泥が集まるから、象が入れば濁るのである。
今の「水清徹底」は底がなく涯がなく、濁りが何処から来るのか、「我却疑著(我れ却って疑著せり)」が「水清徹底」であるのである。この「清水」には「徹底」という言葉も無用であるけれども「不行鳥道」と結ぶからこのように言うのである。法身遍法界・三界唯心と「徹底の清水」は同じである。
〔『抄』私訳〕
「水清といふは、空クウにかゝれる水ミズは清水セイスイに不徹底なり。いはんや器界に泓澄ワイタイする、水清の水にあらず。辺際に涯岸なき、これを徹底の清水とす。うをもしこの水をゆくは行なきにあらず。行はいく万程バンテイとなくすゝむといへども不測フシキなり、不窮フキュウなり。はかる岸なし、うかむ空ソラなし、しづむそこなきがゆゑに測度シキタクするたれなし。測度を論ぜんとすれば徹底の清水のみなり。坐禅の功徳、かの魚行のごとし」とある。
文の通り心得るべきである。一般に、日頃我々が心得ている水を「水清」の「不徹底」と心得るべきではない。その「徹底」の「清水」とは、どのようにあるかと言えば、「辺際に涯岸なき」を「清水」の「徹底」と言うのである。
「魚」が「水をゆく」のは、本当に「行なきにあらず」。但し、この「行」は、「いく万程となくすゝむといへども不測なり、不窮なり。はかる岸なし、うかむ空ソラなし、しづむそこなきがゆゑに測度するたれなし。測度を論ぜんとすれば徹底の清水のみなり」とある。
これは即ち、「水」と「魚」が一体である意味合いである。みな文で言われているから、「坐禅の功徳、かの魚行のごとし」と言うのである。
「徹底の行程は、挙体の不行鳥道なり」とある。
「徹底の行程」を言うなら、「挙体の不行」と言うこともできる。この「行」は「不行」の道理がある。「挙体」とは全体のことである。「行程」の「不行」は、会・不会ほどの意である。「鳥道」は跡がなく、解脱の意味合いに使うのである。
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