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目を怪しんではいけない、耳を信じてはいけない『第十二坐禅箴』12-10-7a

 〔『正法眼蔵』原文〕

「其照自妙ゴショウジミョウ、曾無毫忽之兆ゾウムゴウコツシチョウ


「毫忽」といふは尽界なり。


しかあるに、「自妙」なり、自照なり。


このゆゑに、いまだ将来せざるがごとし。


目をあやしむことなかれ、耳を信ずべからず、

直須旨外明宗ジキシュシガイメイシュ莫向言中取則マクコウゲンチュウシュソク

《直に旨外に宗ムネを明らむべし、言中に向つて則ノリを取ること莫れ》

なるは、照なり。


このゆゑに無偶ムグウなり、このゆゑに無取なり。


これを「奇なり」と住持しきたり、「了なり」と保任しきたるに、

我却疑著ガキャクギヂャク《我れ却つて疑著せり》なり。



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〔『正法眼蔵』私訳〕

「その照が自ずから妙であるのは、かつて毛の先ほどの兆しもないからである」と宏智禅師は言う。

(「其照自妙、曾無毫忽之兆」《其の照自ら妙なるは、曾て毫忽の兆無し》。) 


「毛の先」とは全世界のことである。

(毫忽といふは尽界なり。)

例えば、針の穴に糸を通すような時は、

その様子がその時の自分自身の全世界である。


そうであるから、「自ずから妙タエ」であり、「自ずから照らす」のである。

(しかあるに、自妙なり、自照なり。)


だから、他から何か持ってくるというようなことではないのである。

(このゆゑに、いまだ将来せざるがごとし。)


目を怪しんではいけない、耳を信じてはいけない

(各自の感覚器官に現れる今の様子に参じるべきである)

(目をあやしむことなかれ、耳を信ずべからず、)


「言われている趣旨のほかに大切な意味があることを明らかにしなければならない、言葉の中に規則を認めそれに従ってはならない」というのが、照である。

(直須旨外明宗、莫向言中取則《直に旨外に宗を明らむべし、

言中に向つて則を取ること莫れ》なるは、照なり。)


それ故に相手になるものがなく、それ故に向こうにあるものをこちらが受け取るということも無いのである。

(このゆゑに無偶なり、このゆゑに無取なり。)

〔ただ今の様子があるだけである。〕


それを今の様子一つきりであると生活してきており、

本当にそうだと受け取り大事にしてきているが、

我れ(宏智禅師)はかつてある疑問を持ちそれが契機となり自覚したのである。

(これを奇なりと住持しきたり、了なりと保任しきたるに、

我却疑著(我れ却つて疑著せり)なり。)





                            合掌

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