〔『聞書』原文〕
/「其の照自ら妙なり、曾て毫忽の兆無し」とは、「毫忽」がすなわち山河であり、全世界であるから、「兆無し」と言うのである。
/「いまだ将来せざるがごとし」とは、「将来」とは持ち来たることであり、「縁に対せず」であるから、持ち来たるものはないということである。
/「直に旨外に宗を明らむべし、言中に向つて則を取ること莫れ」とは、「旨外に宗を明らむべし」とは、世間の「旨外」を「明らむべし」というのである。
「旨外」は仏法であるから、「言中に向つて則を取ること莫れ」とは、言語に滞ってはいけないという意味合いである。
/「我れ却つて疑著せりなり」とは、日頃の固執した考えを離れるということである。疑うべきことがあって疑うのではない。坐禅を坐仏と疑うほどのことである。
この「疑著」は、「如何是仏」(如何なるか是仏)というほどのことである。「如何是仏」という言葉は、問いのようであるが、そのまま答え〈如何なるも仏〉なのである。「如何是大用現前(如何なるも大いなるはたらきが現前している)」ということと同じである。
今の「疑著」は、その「照」が「妙」であるところを「疑」と言うのであり、「自妙」である。疑煩悩ということがあるが、今の「疑」とは異なる。「不悟至道(悟らずに道に至る)」ほどの疑である。
〔『抄』私訳〕
「其照自妙、曾無毫忽之兆。毫忽といふは尽界なり。しかあるに、自妙なり、自照なり。このゆゑに、いまだ将来せざるがごとし」とある。
「毫忽」とは、僅かな少しの部分のことだと思っている。毛の先などといって、少ないと思っているのを、今は「毫忽といふは尽界なり」とあり、古い考えとまったく違っている。
「自妙なり、自照なり」とあり、この「照」はどこからどのように来たということはないから、「将来せざるがごとし」と言うのである。
〔『抄』私訳〕
「目をあやしむことなかれ、耳を信ずべからず、直須旨外明宗ジキシュシガイメイシュ、莫向言中取則マクコウゲンチュウシュソク《直に旨外に宗ムネを明らむべし、言中に向つて則ノリを取ること莫れ》なるは、照なり。このゆゑに無偶ムグウなり、このゆゑに無取なり。これを奇なりと住持しきたり、了なりと保任しきたるに、我却疑著ガキャクギヂャク《我れ却つて疑著せり》なり」とある。
これはつまるところ、我々の「目」を用いて、「耳を信ずべからず」と嫌われる言葉である。本当にこの坐禅が談ずる所の前で、今の「照」の道理の上で、どうして我々が六根六境を用いることがあろうか。
この「直に旨外に宗を明らむべし、言中に向つて則を取ること莫れなるは、照なり」とあり、「言中に向つて則を取ること莫れ」の言葉は、嫌われたように見える。ただ「旨外に宗を明らむべし」も「言中に向つて則を取ること莫れ」も、みな「照」の道理であると解するべきである。
この道理を「無偶なり」、「無取なり」、「奇なりと住持しきたり、了なりと保任しきたる」と言うのである。
「我れ却つて疑著せりなり」と言う、
この「疑著」の言葉は疑いではなく、「什麼物什麼来」という「疑著」であり、「説似一物即不中」という道理である。
坐禅と言うか、坐仏と言うか、思量と言うか、非思量と言うか、仏性と言うか、蚯蚓と言うかという「疑著」である。
この下では、坐禅にも、坐仏にも、思量にも、非思量にも、仏性にも、蚯蚓にも、みな当たるのである。だから受け入れられるべき言葉と心得るべきである。我々が物をおいて、是非したり取捨したりする疑著ではないのである。
「直に旨外に宗を明らむべし、言中に向つて則を取ること莫れ」は、古い言葉である。
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