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要のはたらきが目の前に現れている、それが坐禅である『第十二坐禅箴』12-10-3a

 〔『正法眼蔵』原文〕

「仏々要機ブツブツノヨウキ


「仏々」はかならず仏々を要機とせる、

その「要機」現成せり、これ坐禅なり。


「祖々機要ソソノキヨウ


先師無此語ムシゴなり。


この道理これ「祖々」なり。


法伝衣伝ホウデンエデンあり。


おほよそ回頭換面の面々、これ「仏々要機」なり。


換面回頭の頭々ズズ、これ「祖々機要」なり。



〔『正法眼蔵』私訳〕

「坐禅は、あらゆる仏の要カナメのはたらきである」と宏智ワンシ禅師は言う。

(「仏々要機」)


「あらゆる仏」は必ずあらゆる仏のありようを要のはたらきとする、

(「仏々」はかならず仏々を要機とせる、)


その要のはたらきが目の前に現れている、それが坐禅である。

(その要機現成せり、これ坐禅なり。)


「坐禅は、あらゆる祖師のはたらきの要である」。

(「祖々機要」)


先師にこの語はない〔、坐禅は師の教えによるのではなく、初めから自己の真相であるからである〕。

(先師無此語なり。)


坐禅は自己の真相であるという道理が、

祖師が祖師である所以ユエンである。

(この道理これ「祖々」なり。)


ここに法が伝わり、袈裟が伝わるのである。

(法伝衣伝あり。)


そもそも向こうとこちらが別々でない今の様子、

これがあらゆる仏の要のはたらきである。

(おほよそ回頭換面の面々、これ仏々要機なり。)


こちらと向こうが別々でない今の様子、

これがあらゆる祖師の要のはたらきなのである。

(換面回頭の頭頭、これ祖々機要なり。)





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