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宏智禅師の坐禅箴はこの通りである『第十二坐禅箴』12-10-10a

 〔『正法眼蔵』原文〕

 宏智禅師の坐禅箴かくのごとし。


諸代の老宿のなかに、いまだいまのごとくの坐禅箴あらず。


諸方の臭皮袋シュウヒタイ、もしこの坐禅箴のごとく道取せしめんに、

一生二生のちからをつくすとも、道取せんことうべからざるなり。


いま諸方にみえず、ひとりこの箴のみあるなり。


 先師上堂の時、尋常に云く、「宏智、古仏なり」。


自余ジヨの漢を恁麼いふこと、すべてなかりき。


知人チニンの眼目あらんとき、仏祖をも知音チインすべきなり。


まことにしりぬ、洞山トウザンに仏祖あることを。




〔『正法眼蔵』私訳〕

宏智禅師の坐禅箴はこの通りである。

(宏智禅師の坐禅箴かくのごとし。)


歴代の高僧の中で、まだこれほどの坐禅箴を書いた人はいない。

(諸代の老宿のなかに、いまだいまのごとくの坐禅箴あらず。)


諸方の人が、もしこの坐禅箴のように言おうとしても、

一生二生の力を尽くしても、とても言い表せるものではない。

(諸方の臭皮袋、もしこの坐禅箴のごとく道取せしめんに、

一生二生のちからをつくすとも、道取せんことうべからざるなり。)


今どこにも見当たらず、ただこの宏智禅師の坐禅箴があるだけである。

(いま諸方にみえず、ひとりこの箴のみあるなり。)



 先師(如浄禅師)が法堂ハットウに上がって説法をなさる時、

いつも言われた、「宏智は古仏(仏の中の仏)である」と。

(先師上堂の時、尋常に云く、宏智、古仏なり。)


その他の人をこのように言うことは、まったくなかった。

(自余の漢を恁麼いふこと、すべてなかりき。)


人を見る目がある時は、仏祖を知ることができるのである。

(知人の眼目あらんとき、仏祖をも知音すべきなり。)


誠に、洞山下にこのような優れた仏祖があられることを知るのである。

(まことにしりぬ、洞山に仏祖あることを。)


宏智禅師の坐禅箴はこの通りである『第十二坐禅箴』12-10-10b



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