〔『正法眼蔵』原文〕
宏智禅師の坐禅箴かくのごとし。
諸代の老宿のなかに、いまだいまのごとくの坐禅箴あらず。
諸方の臭皮袋シュウヒタイ、もしこの坐禅箴のごとく道取せしめんに、
一生二生のちからをつくすとも、道取せんことうべからざるなり。
いま諸方にみえず、ひとりこの箴のみあるなり。
先師上堂の時、尋常に云く、「宏智、古仏なり」。
自余ジヨの漢を恁麼いふこと、すべてなかりき。
知人チニンの眼目あらんとき、仏祖をも知音チインすべきなり。
まことにしりぬ、洞山トウザンに仏祖あることを。
〔『正法眼蔵』私訳〕
宏智禅師の坐禅箴はこの通りである。
(宏智禅師の坐禅箴かくのごとし。)
歴代の高僧の中で、まだこれほどの坐禅箴を書いた人はいない。
(諸代の老宿のなかに、いまだいまのごとくの坐禅箴あらず。)
諸方の人が、もしこの坐禅箴のように言おうとしても、
一生二生の力を尽くしても、とても言い表せるものではない。
(諸方の臭皮袋、もしこの坐禅箴のごとく道取せしめんに、
一生二生のちからをつくすとも、道取せんことうべからざるなり。)
今どこにも見当たらず、ただこの宏智禅師の坐禅箴があるだけである。
(いま諸方にみえず、ひとりこの箴のみあるなり。)
先師(如浄禅師)が法堂ハットウに上がって説法をなさる時、
いつも言われた、「宏智は古仏(仏の中の仏)である」と。
(先師上堂の時、尋常に云く、宏智、古仏なり。)
その他の人をこのように言うことは、まったくなかった。
(自余の漢を恁麼いふこと、すべてなかりき。)
人を見る目がある時は、仏祖を知ることができるのである。
(知人の眼目あらんとき、仏祖をも知音すべきなり。)
誠に、洞山下にこのような優れた仏祖があられることを知るのである。
(まことにしりぬ、洞山に仏祖あることを。)
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