〔『正法眼蔵』原文〕
かれらが所集は、ただ還源返本カンゲンヘンポンの様子なり、
いたづらに息慮凝寂ソクリョギョウジャクの経営ケイメイなり。
観練薫修カンレンクンジュの階級におよばず、十地等覚ジュッチトウガクの見解ケンゲにおよばず、いかでか仏々祖々の坐禅を単伝せん。
宋朝の録者あやまりて録せるなり、晩学すててみるべからず。
〔『正法眼蔵』私訳〕
彼らが収録したものは、ただ外に流転しようとする心の働きを留めて、
内なる本源に返そうとする坐禅観であり、
わけもなく思慮を止め静寂の気に留まろうと営む観法である。
(かれらが所集は、ただ還源返本の様子なり、いたづらに息慮凝寂の経営なり。)
それらは、観練薫修(禅定の観禅・練禅・薫禅・修禅の四段階)の段階的な禅定の進展にすら及ばず、十地(菩薩が修行すべき五十二位の中の第四十一位から第五十位まで)等覚(仏と等しい位)の見解にも及ばない、どうして仏々祖々の坐禅を自己に正しく伝えているものと言えよう。
(観練薫修の階級におよばず、十地等覚の見解におよばず、
いかでか仏々祖々の坐禅を単伝せん。)
宋代の記録者が誤って収録したものである、
後学の者は捨てて顧みるべきではない。
(宋朝の録者あやまりて録せるなり、晩学すててみるべからず。)
後学の者は捨てて顧みるべきではない『第十二坐禅箴』12-9-6b
合掌
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