〔『正法眼蔵』本文〕
このゆゑに、古来より近代にいたるまで、
坐禅銘を記せる老宿一両位あり、坐禅儀を撰せる老宿一両位あり。
坐禅箴を記せる老宿一両位あるなかに、坐禅銘、ともにとるべきところなし、坐禅儀、いまだその行履アンリにくらし。
坐禅をしらず、坐禅を単伝せざるともがらの記せるところなり。
景徳伝灯録ケイトクデントウロクにある坐禅箴、および嘉泰普灯録カタイフトウロクにあるところの坐禅銘等なり。
あはれむべし、十方の叢林に経歴キョウリャクして一生をすごすといへども、
一坐の功夫あらざることを。
打坐すでになんぢにあらず、功夫さらにおのれと相見ショウケンせざることを。
これ坐禅のおのれが身心をきらふにあらず、真箇の功夫をこころざさず、
倉卒ソウソツに迷酔せるによりてなり
〔『正法眼蔵』私訳〕
このために、古代から近代に至るまで、坐禅銘を記した高僧が一人二人おり、坐禅儀を撰述した高僧も一人二人いる。
(このゆゑに、古来より近代にいたるまで、坐禅銘を記せる老宿一両位あり、
坐禅儀を撰せる老宿一両位あり。)
坐禅箴を書いた高僧の一人二人いる中で、坐禅銘は、どれも取るべきものはない、坐禅儀は、いまだ坐禅している時のありようにくらい。
(坐禅箴を記せる老宿一両位あるなかに、坐禅銘、ともにとるべきところなし、
坐禅儀、いまだその行履にくらし。)
坐禅を知らず、坐禅を自己に正しく伝えていない者たちが
記したものである。
(坐禅をしらず、坐禅を単伝せざるともがらの記せるところなり。)
『景徳伝灯録』にある坐禅箴、
および『嘉泰普灯録』にある坐禅銘などがそれである。
(景徳伝灯録にある坐禅箴、および嘉泰普灯録にあるところの坐禅銘等なり。)
哀れむべきである、十方の修行道場を経巡って一生を過ごしたとしても、
一炷の坐禅を本当に行じることがなかったことを。
(あはれむべし、十方の叢林に経歴して一生をすごすといへども、
一坐の功夫あらざることを。)
哀れむべきである、坐禅がまったく自分のものにならず、
坐禅を行じても決して自己の本来の面目と出会わなかったことを。
(打坐すでになんぢにあらず、功夫さらにおのれと相見せざることを。)
これは坐禅が自分の身心を嫌ったからではない、
本物の修行を志さず、形を作ってただ坐っているのが坐禅だと曲解し
それに酔っているからである。
(これ坐禅のおのれが身心をきらふにあらず、真箇の功夫をこころざさず、
倉卒に迷酔せるによりてなり。)
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