〔『正法眼蔵』原文〕
仏祖の光明に照臨せらるゝといふは、この坐禅を功夫参究するなり。
おろかなるともがらは、仏光明をあやまりて、
日月の光明のごとく、珠火シュカの光耀コウヨウのごとくあらんずるとおもふ。
日月の光耀は、わづかに六道輪廻の業相ゴッソウなり、
さらに仏光明に比すべからず。
仏光明といふは、一句を受持聴聞し、一法を保任護持し、
坐禅を単伝するなり。
光明にてらさるゝにおよばざれば、この保任なし、この信受なきなり。
しかあればすなはち、古来なりといへども、
坐禅を坐禅なりとしれるすくなし。
いま現在大宋国の諸山に、甲刹カッセツの主人とあるもの、
坐禅をしらず、学せざるおほし。
あきらめしれるありといへども、すくなし。
諸寺にもとより坐禅の時節さだまれり。
住持より諸僧ともに坐禅するを本分の事とせり、
学者を勧誘するにも坐禅をすすむ。
しかあれども、しれる住持人はまれなり。
〔『正法眼蔵』私訳〕
仏祖の光明に照らされるとは、この坐禅を修行し参じ究めることである。
(仏祖の光明に照臨せらるるといふは、この坐禅を功夫参究するなり。)
愚かな連中は、仏の光明を見誤って、
日月の光や玉石・灯火の輝きのようなものであろうと思っている。
(おろかなるともがらは、仏光明をあやまりて、
日月の光明のごとく、珠火の光耀のごとくあらんずるとおもふ。)
日月や玉石・灯火の輝きは、かろうじて六道(六つの迷いの世界)を輪廻する業の現れであり、決して仏の光明に比べてはならない。
(日月の光耀は、わづかに六道輪廻の業相なり、さらに仏光明に比すべからず。)
仏の光明とは、一句を聞いて心にとどめ、一法(このように坐っている様子)を保持してそのものになりきり、坐禅を単伝する(坐禅が坐禅を伝える)ことである。
(仏光明といふは、一句を受持聴聞し、一法を保任護持し、坐禅を単伝するなり。)
仏の光明に照らされるようにならなければ、坐禅を保持してなりきることはなく、坐禅を信じ受け入れることはないのである。
(光明にてらさるるにおよばざれば、この保任なし、この信受なきなり。)
そのようなわけで、坐禅が昔から伝わっていても、
坐禅を坐禅であると知っている者は少ない。
(しかあればすなはち、古来なりといへども、坐禅を坐禅なりとしれるすくなし。)
現在、大宋国の諸山の、名刹の住職の中で、
坐禅を知らず、学ばない者が多い。
(いま現在大宋国の諸山に、甲の主人とあるもの、坐禅をしらず、学せざるおほし。)
坐禅を明らめ坐禅を知っている者がいるといっても、
そういう者は少ない。
(あきらめしれるありといへども、すくなし。)
どこの寺でも昔から坐禅の時間は決まっている。
(諸寺にもとより坐禅の時節さだまれり。)
住職から諸僧に至るまで坐禅することを本来の務めとし、
修行者を勧誘する際にも坐禅を勧めている。
(住持より諸僧ともに坐禅するを本分の事とせり、学者を勧誘するにも坐禅をすすむ。)
しかし、坐禅を知っている住職はまれである。
(しかあれども、しれる住持人はまれなり。)
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