〔『抄』私訳〕
「仏祖の光明に照臨せらるるといふは、この坐禅を功夫参究するなり」とは、この坐禅を「光明」と言うのである。「日月」「珠火」などの光を「光明」と心得てはならないのである。
〔評釈〕
坐禅している時の様子はどんなふうでしょうか。
物に向かうとそのものがその通り見える。
◯がある・・・□がある・・・△がある・・・
「カア!」と音がすると、その通り「カア!」と聞こえる。
それで音を聞くということは全部終わっています。
学びたいこと、知りたいことは、全部「カア!」の中にあります。
そういう風にこの身心はできています。
目の前のことによってこの身心の今の様子が実感されるのです。
このようなことが、坐禅している時のこの身心の様子です。
「仏道をならふといふは、自己をならふなり。
自己をならふといふは、自己をわするゝなり。
自己をわするゝといふは、万法に証せらるゝなり
(仏道を学ぶとは、自己を学ぶことである。
自己を学ぶとは、自己を忘れることである。
自己を忘れるとは、あらゆるものに体験させられることである)」
ということが、この身心の上で実感されるのです。
そして私たちの日常のありようも同じです。
今、手を打つと、考えなくてもいきなり「パン!」とその通り聞こえる。
目を上げると、考えなくてもいきなり目の前の物がその通り見える。
お茶を呑むと、考えなくてもいきなりお茶の味がその通りする。
バラの傍によると、考えなくてもいきなりバラの香りがその通りする。
一つ一つ必ずその通りになるのが自分自身の真実の様子です。
このように一つ一つこの身心の真実のありようを実感し、
必ずその通りになる確かさに学ぶことが、仏道修行なのです。
合掌
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