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仏々祖々が要カナメの働きとしてきたのは坐仏である『第十二坐禅箴』12-9-3a

  南嶽ナンガク・江西コウゼイの師勝資強シショウシキョウ、かくのごとし。


坐仏の作仏を証する、江西これなり。


作仏のために坐仏をしめす、南嶽これなり。


南嶽の会に恁麼の功夫あり、薬山の会に向来コウライの道取あり。


 しるべし、仏々祖々の要機とせるは、これ坐仏なりといふことを。


すでに仏々祖々とあるは、この要機を使用せり。


いまだしきは夢也未見在ムヤミケンザイなるのみなり。


おほよそ西天東地サイテントウチに仏法つたはるるといふは、

かならず坐仏のつたはるゝなり。


それ要機なるによりてなり。


仏法つたはれざるには坐禅つたはれず、

嫡々相承テキテキソウジョウせるはこの坐禅の宗旨のみなり。


この宗旨いまだ単伝せざるは仏祖にあらざるなり。


この一法あきらめざれば万法マンボウあきらめざるなり、

万行あきらめざるなり。


法々あきらめざらんは明眼ミョウゲンといふべからず、得道にあらず。


いかでか仏祖の今古コンコならん。


ここをもて仏祖かならず坐禅を単伝すると一定イチヂョウすべし。



〔『正法眼蔵』私訳〕

の南嶽が勝れ弟子の馬祖がしっかりしているのは、この通りである。

(南嶽・江西の師勝資強、かくのごとし。)


坐仏(今こうやって坐っているありよう)が作仏であることを実証したのは、

馬祖である。

(坐仏の作仏を証する、江西これなり。)


瓦を磨いて、作仏のために坐仏を示したのは、南嶽である。

(作仏のために坐仏をしめす、南嶽これなり。)


南嶽の法会にこのような修行の功夫があり、

薬山の法会で先に述べた言葉がある。

(南嶽の会に恁麼の功夫あり、薬山の会に向来コウライの道取あり。)


知るといい、仏々祖々が要カナメの働きとしてきたのは、

坐仏(今こうやって坐っているありよう)であるということを。

(しるべし、仏々祖々の要機とせるは、これ坐仏なりといふことを。)


すでに仏々祖々と言われる方々は、

この要の働きを使用してきたのである。

(すでに仏々祖々とあるは、この要機を使用せり。)


まだそうでない人は、夢にもまだ見たことがないのである。

(いまだしきは夢也未見在なるのみなり。)


およそ西のインドや東の中国に仏法が伝わったというのは、

必ず坐仏が伝わったということである。

(おほよそ西天東地に仏法つたはるるといふは、かならず坐仏のつたはるるなり。)


それは坐仏が要の働きであるからである。

(それ要機なるによりてなり。)


仏法が伝わらなければ坐禅は伝わらず、師から弟子へと正しく法が伝えられてきたのはこの坐禅の宗旨だけである。

(仏法つたはれざるには坐禅つたはれず、嫡々相承せるはこの坐禅の宗旨のみなり。)


この宗旨をまだ自己に正しく伝えていない者は仏祖ではないのである。

(この宗旨いまだ単伝せざるは仏祖にあらざるなり。)


この坐禅の一法を明らかにすることができなければ、

あらゆる法を明らかにできず、あらゆる行も明らかにできないのである。

(この一法あきらめざれば万法あきらめざるなり、万行あきらめざるなり。)


あらゆるものを明らかにすることができなければ明らかな眼と言うことはできず、道を得たということにはならないのである。

(法々あきらめざらんは明眼といふべからず、得道にあらず。)


どうして古今を通じての仏祖と言えようか。

(いかでか仏祖の今古ならん。)


こういうわけで、仏祖は必ず坐禅を自己に正しく伝えると思い定めるべきである。

(ここをもて仏祖かならず坐禅を単伝すると一定すべし。)





                              合掌

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