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その言葉は坐仏を修行する上にある『第十二坐禅箴』12-9-2a

 〔『正法眼蔵』原文〕

いまだかつて坐せざるものにこの道ドウのあるにあらず。


打坐時にあり、打坐人にあり、打坐仏にあり、学坐仏にあり。


たゞ人の坐臥する坐の、この打坐仏なるにあらず。


人坐ニンザのおのづから坐仏・仏坐に相似ソウジなりといへども、

人作仏ニンサブツあり、作仏人あるがごとし。


作仏人ありといへども、一切人は作仏にあらず、

ほとけは一切人にあらず。


一切仏は一切人のみにあらざるがゆゑに、

人かならず仏にあらず、仏かならず人にあらず。


坐仏もかくのごとし。



〔『正法眼蔵』私訳〕

今まで一度も坐ったことがない者に、

この言葉「若執坐相、非達其理」があるのではない。

(いまだかつて坐せざるものにこの道ドウのあるにあらず。)


その言葉は、坐っている時にあり、坐っている人にあり、

坐っている仏にあり、坐仏を修行する上にあるのである。

(打坐時にあり、打坐人にあり、打坐仏にあり、学坐仏にあり。)


人が普通に坐ったり横になったりする意味での坐は、

この打坐仏(坐っている仏)ではない。

(ただ人の坐臥する坐の、この打坐仏なるにあらず。)


人の坐がたまたま坐仏・仏坐と似ていても、人が仏に作り、

仏に作った人がいるようなことである。

(人坐のおのづから坐仏・仏坐に相似ソウジなりといへども、人作仏ニンサブツあり、

作仏人あるがごとし。)


仏に作る人がいるとしても、一切の人は仏に作るのではなく、

仏は一切の人ではないのである。

(作仏人ありといへども、一切人は作仏にあらず、ほとけは一切人にあらず。)


一切の仏は一切の人だけではないから、

人は必ずしも仏ではなく、仏は必ずしも人ではない。

(一切仏は一切人のみにあらざるがゆゑに、人かならず仏にあらず、仏かならず人にあらず。)


坐仏も同様である。

(坐仏もかくのごとし。)




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