〔『聞書』私訳〕
/「坐仏仏坐に相似なりといへども」とは、「人作仏」「作仏人」ということを相対させた言葉である。例えば、「磨塼作鏡」のようである。「人作仏」といっても、人が仏になると心得てはならない。そのまま人が「作仏」なのである。
/「一切人は作仏にあらず、ほとけは一切人にあらず」とは、作鏡と磨鏡のようなことである。これは、仏と人の勝劣を判別するのではない。「執坐相」は「作仏」を待たないというのが「執坐相」なのである。「坐」を「執」して「作」を待たないからである。「其理」以外の人がいないから、「達」「非達」ということがないのである。
〔「抄」私訳〕
「ただ人の坐臥する坐の、この打坐仏なるにあらず。人坐ニンザのおのづから坐仏・仏坐に相似ソウジなりといへども、人作仏ニンサブツあり、作仏人あるがごとし。作仏人ありといへども、一切人は作仏にあらず、ほとけは一切人にあらず。一切仏は一切人のみにあらざるがゆゑに、人かならず仏にあらず、仏かならず人にあらず。坐仏もかくのごとし」とある。
これは、「人の坐臥する坐」とは、普通の人が坐ることを言うのである。この坐は「打坐仏なるにあらず」と嫌われるのである。「坐仏」ではないからである。
「人坐ニンザのおのづから坐仏仏坐に相似ソウジなりといへども、人作仏ニンサブツあり、作仏人あるがごとし」とは、坐の姿は似ているけれども、この道理を学ぶ人にとってだけ、「作仏人・人作仏」と言われるという意味である。この道理を理解しないで、ただ徒に坐る人の上では、確かに「一切人は作仏にあらず」と言われるのである。
「ほとけは一切人にあらず。一切仏は一切人のみにあらざるがゆゑに」とは、仏は仏、人は人という意味合いである。「人かならず仏にあらず、仏かならず人にあらず」と、前に言った通りである。但し、このように言うからといって、まったく否定しているのではない。人が仏、仏が人という道理が、またこの下にはあるのである。
合掌
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