〔『正法眼蔵』原文〕
図作仏は脱落にして、脱落なる図作仏か。
作仏たとひ万般バンパンなりとも、
この図に葛藤しもてゆくを図作仏と道取するか。
しるべし、大寂の道は、坐禅かならず図作仏なり、
坐禅かならず作仏の図なり。
図は作仏より前なるべし、作仏より後なるべし、
作仏の正当恁麼時なるべし
〔『正法眼蔵』私訳〕
図作仏(作仏の様子)は脱落であって、脱落である図作仏か。
(図作仏は脱落にして、脱落なる図作仏か。)
作仏はたとえ種々様々であっても、この坐禅の図(様子)に絡まり合っていく(葛藤しもてゆく)のを図作仏と言うか。
(作仏たとひ万般なりとも、この図に葛藤しもてゆくを図作仏と道取するか。)
知るといい、馬祖の言うのは、坐禅はそこに必ず坐っている様子(図作仏)があり、坐禅はこうやったら必ずこうなっている様子(作仏の図)があるということである。
(しるべし、大寂の道は、坐禅かならず図作仏なり、坐禅かならず作仏の図なり。)
坐禅の図は作仏より前であり、作仏より後であり、
作仏の正にその時なのである。
(図は作仏より前なるべし、作仏より後なるべし、作仏の正当恁麼時なるべし。)
この坐禅の図に絡まり合っていくのを図作仏と言う『第十二坐禅箴』12-4-4b
合掌
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