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後学の者は捨てて顧みるべきではない『第十二坐禅箴』12-9-6a

  〔『正法眼蔵』原文〕 かれらが所集は、ただ還源返本 カンゲンヘンポン の様子なり、 いたづらに息慮凝寂 ソクリョギョウジャク の経営 ケイメイ なり。 観練薫修 カンレンクンジュ の階級におよばず、十地等覚 ジュッチトウガク の見解 ケンゲ におよばず、いかでか仏々祖々の坐禅を単伝せん。 宋朝の録者あやまりて録せるなり、晩学すててみるべからず。 〔『正法眼蔵』私訳〕 彼らが収録したものは、ただ 外に流転しようとする心の働きを留めて、 内なる本源に返そうとする坐禅観 であり、 わけもなく 思慮を止め静寂の気に留まろうと営む観法 である。 (かれらが所集は、ただ還源返本の様子なり、 いたづらに息慮凝寂の経営なり。) それらは、 観練薫修 (禅定の観禅・練禅・薫禅・修禅の四段階) の段階的な禅定の進展にすら及ばず、十地 (菩薩が修行すべき五十二位の中の第四十一位から第五十位まで) 等覚 (仏と等しい位) の見解にも及ばない、どうして 仏々祖々 の坐禅を自己に正しく伝えているものと言えよう。 (観練薫修の階級におよばず、十地等覚の見解におよばず、 いかでか仏々祖々の坐禅を単伝せん。) 宋代の記録者が誤って収録したものである、 後学の者は捨てて顧みるべきではない。 (宋朝の録者あやまりて録せるなり、晩学すててみるべからず。) 後学の者は捨てて顧みるべきではない『第十二坐禅箴』12-9-6b                                合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                               ↓               ↓       にほんブログ村

後学の者は捨てて顧みるべきではない『第十二坐禅箴』12-9-6b

  〔『抄』私訳〕 「かれらが所集は、ただ還源返本 カンゲンヘンポン の様子なり、いたづらに息慮凝寂 ソクリョギョウジャク の経営 ケイメイ なり。観練薫修 カンレンクンジュ の階級におよばず、十地等覚 ジュッチトウガク の見解 ケンゲ におよばず、いかでか仏々祖々の坐禅を単伝せん。宋朝の録者あやまりて録せるなり、晩学すててみるべからず」とある。 これは、「かれらが所集」とは、上に出した「坐禅銘」「坐禅儀」「坐禅箴」などを、『景徳伝灯録』『嘉泰普灯録』の両録が載せていることである。これらを収録した考えは、六塵の迷妄を止めれば、「息慮凝寂」 (思慮を止め静寂の気に定まる=無意識状態になる) であり、湛然として「還源返本」 (外に流転する心を止め内なる本源に返る) すると言うのであるが、この考えを嫌われるのである。 仏祖の坐禅はそういうものではない。間違いなく両録は俗人が収録したものであるから、『伝灯録』なども必ずしも疑いのないものとすべきではない。 〔『聞書』私訳〕 /「還源返本 (外に流転する心を止め内なる本源に返る) の様子」とは 《割註:本流・逆流ということがある》 、流転を返す意味である。「還作衆生」 (還りて衆生となる) と説くことがある。 「息慮凝寂 (思慮を止め静寂の気に定まる=無意識状態になる) の経営」とは、小乗で説く「胸襟無事了」ほどのことである 《般若経では仏果空ということもある》 。 /「十地・等覚の見解にはおよばず、いかでか仏々祖々の坐禅を単伝せん」というのは、「息慮凝寂」の言葉を世間の禅僧が言う程度は、「観練薫修の階級」「十地等覚の見解」におよばないというのである。 但し、今の坐禅の意味合いでは、また「観練薫修の階級」「十地等覚の見解」も及ぶことはないのである。そのわけは、「十地」の菩薩を立てる時、同じ「十地」の菩薩なのに、初地の菩薩は二地の菩薩の挙足下足 (起居動作) を知らないと言う、ましてや、仏祖の坐禅をうかがい知ることなどできないのである。 但し、「等覚」の菩薩などをわけもなく下げるのではなく、我が祖門の道理ではないところをあげて、知っているのかと言うのである。 「十地等」は十の階級を順に並べて「妙覚」の位を待つ。無明の悪が断たれないことがあり、法性が現れないことがある。祖門では、行は証を待たず、証は行を待た...

坐禅しても自己の本来の面目と出会わなかった『第十二坐禅箴』12-9-5a

  〔『正法眼蔵』本文〕 このゆゑに、古来より近代にいたるまで、 坐禅銘を記せる老宿一両位あり、 坐禅儀を撰せる老宿一両位あり。 坐禅箴を記せる老宿一両位あるなかに、坐禅銘、ともにとるべきところなし、坐禅儀、いまだその行履 アンリ にくらし。 坐禅をしらず、坐禅を単伝せざるともがらの記せるところなり。 景徳伝灯録 ケイトクデントウロク にある坐禅箴、および嘉泰普灯録 カタイフトウロク にあるところの坐禅銘等なり。 あはれむべし、十方の叢林に経歴 キョウリャク して一生をすごすといへども、 一坐の功夫あらざることを。 打坐すでになんぢにあらず、功夫さらにおのれと相見 ショウケン せざることを。 これ坐禅のおのれが身心をきらふにあらず、真箇の功夫をこころざさず、 倉卒 ソウソツ に迷酔せるによりてなり 〔『正法眼蔵』私訳〕 このために、古代から近代に至るまで、坐禅銘を記した高僧が一人二人おり、坐禅儀を撰述した高僧も一人二人いる。 (このゆゑに、古来より近代にいたるまで、坐禅銘を記せる老宿一両位あり、 坐禅儀を撰せる老宿一両位あり。) 坐禅箴を書いた高僧の一人二人いる中で、坐禅銘は、どれも取るべきものはない、坐禅儀は、いまだ坐禅している時のありようにくらい。 (坐禅箴を記せる老宿一両位あるなかに、坐禅銘、ともにとるべきところなし、 坐禅儀、いまだその行履にくらし。) 坐禅を知らず、坐禅を自己に正しく伝えていない者たちが 記したものである。 (坐禅をしらず、坐禅を単伝せざるともがらの記せるところなり。) 『景徳伝灯録』にある坐禅箴、 および『嘉泰普灯録』にある坐禅銘などがそれである。 (景徳伝灯録にある坐禅箴、および嘉泰普灯録にあるところの坐禅銘等なり。) 哀れむべきである、十方の修行道場を経巡って一生を過ごしたとしても、 一炷の坐禅を本当に行じることがなかったことを。 (あはれむべし、十方の叢林に経歴して一生をすごすといへども、 一坐の功夫あらざることを。) 哀れむべきである、坐禅がまったく自分のものにならず、 坐禅を行じても決して自己の本来の面目と出会わなかったことを。 (打坐すでになんぢにあらず、功夫さらにおのれと相見せざることを。) これは坐禅が自分の身心を嫌ったからではない、 本物の修行を志さず、 形を作ってただ坐っているのが坐禅だと 曲解し それに酔っ...

坐禅しても自己の本来の面目と出会わなかった『第十二坐禅箴』12-9-5b

  〔『抄』私訳〕 「このゆゑに、古来より近代にいたるまで、坐禅銘を記せる老宿一両位あり、坐禅儀を撰せる老宿一両位あり。 坐禅箴を記せる老宿一両位あるなかに、坐禅銘、ともにとるべきところなし、坐禅儀、いまだその行履 アンリ にくらし。 坐禅をしらず、坐禅を単伝せざるともがらの記せるところなり。 景徳伝灯録 ケイトクデントウロク にある坐禅箴、および嘉泰普灯録 カタイフトウロク にあるところの坐禅銘等なり。 あはれむべし、十方の叢林に経歴 キョウリャク して一生をすごすといへども、一坐の功夫あらざることを。 打坐すでになんぢにあらず、功夫さらにおのれと相見 ショウケン せざることを。 これ坐禅のおのれが身心をきらふにあらず、真箇の功夫をこころざさず、倉卒 ソウソツ に迷酔せるによりてなり」 とある。  これらはみな用いるべきではない、と嫌われるのである。                                合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                               ↓               ↓       にほんブログ村

坐禅を坐禅であると知っている者は少ない『第十二坐禅箴』12-9-4a

  〔『正法眼蔵』原文〕  仏祖の光明に照臨せらるゝといふは、この坐禅を功夫参究するなり。 おろかなるともがらは、仏光明をあやまりて、 日月の光明のごとく、珠火 シュカ の光耀 コウヨウ のごとくあらんずるとおもふ。 日月の光耀は、わづかに六道輪廻の業相 ゴッソウ なり、 さらに仏光明に比すべからず。 仏光明といふは、一句を受持聴聞し、一法を保任護持し、 坐禅を単伝するなり。 光明にてらさるゝにおよばざれば、 この保任なし、この信受なきなり。  しかあればすなはち、古来なりといへども、 坐禅を坐禅なりとしれるすくなし。 いま現在大宋国の諸山に、甲刹 カッセツ の主人とあるもの、 坐禅をしらず、学せざるおほし。 あきらめしれるありといへども、すくなし。 諸寺にもとより坐禅の時節さだまれり。 住持より諸僧ともに坐禅するを本分の事とせり、 学者を勧誘するにも坐禅をすすむ。 しかあれども、しれる住持人はまれなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 仏祖の光明に照らされるとは、この坐禅を修行し参じ究めることである。 (仏祖の光明に照臨せらるるといふは、この坐禅を功夫参究するなり。) 愚かな連中は、仏の光明を見誤って、 日月の光や玉石・灯火の輝きのようなものであろうと思っている。 (おろかなるともがらは、仏光明をあやまりて、 日月の光明のごとく、珠火の光耀のごとくあらんずるとおもふ。) 日月や玉石・灯火の輝きは、かろうじて六道 (六つの迷いの世界) を輪廻する業の現れであり、決して仏の光明に比べてはならない。 (日月の光耀は、わづかに六道輪廻の業相なり、さらに仏光明に比すべからず。) 仏の光明とは、一句を聞いて心にとどめ、一法 (このように坐っている様子) を保持してそのものになりきり、坐禅を単伝する (坐禅が坐禅を伝える) ことである。 (仏光明といふは、一句を受持聴聞し、一法を保任護持し、坐禅を単伝するなり。) 仏の光明に照らされるようにならなければ、坐禅を保持してなりきることはなく、坐禅を信じ受け入れることはないのである。 (光明にてらさるるにおよばざれば、この保任なし、この信受なきなり。) そのようなわけで、坐禅が昔から伝わっていても、 坐禅を坐禅であると知っている者は少ない。 (しかあればすなはち、古来なりといへども、坐禅を坐禅なりとしれるすくなし。) 現在、大宋国の諸...